旅行記22 京都市内観光(嵐山・仁和寺・龍安寺・金閣寺)

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京都市内観光

今回は京都市内の北西部領域。
嵐山⇒仁和寺⇒竜安寺⇒金閣寺
と徒歩で観光。
行程約6km

嵐山(あらしやま)

朝8時にホテルをチェックアウトし近くの嵐山へ。
嵐山近くになると平安時代の天皇陵(嵯峨天皇陵、亀山天皇陵、後亀山天皇陵(写真))がみられる。
奈良にある天皇陵よりは小規模。やはり古墳時代期は大きい。

嵐山(あらしやま)は、標高382mの山。
また、松尾山、鳥ヶ岳、小倉山・亀山とその麓を含んだ一帯を一般に嵐山と呼んでいる観光の定番名所。私も中学の修学旅行で来たとき、保津川下りの到着地点として観光した思い出深い場所。
ここに着たときは、「将来京都に住みたい」と思っていたほど感激していた。
でも、せっかく関西に10年以上も住んでいたのに、うつ病のため何もやる気が湧かずで観光どころでもなくここに来ていなかった。
数十年ぶりにきたときは、「あれ、こんな場所だったけ?」と昔の記憶とかなり違っていた。
青年期の記憶って年取るとかなりずれてるんだなー。
未だ、この頃は感情が死んでいたせいか、それほど感激もしなかった。

嵯峨野と嵐山の間を流れる大堰川に架かる「渡月橋(とげつきょう)」。
836年(平安時代)にかけられたのがはじまり。
鎌倉時代の亀山上皇が、橋の上空を移動していく月を眺めて
「くまなき月の渡るに似る」
と述べたことが命名の由来と伝わる。
川の上流は保津川、嵐山付近は大堰川(おおいがわ)、さらに南になると桂川と名前がかわるらしい。

嵐山は桜と紅葉の名所でも知られる。
ちょうどこの頃は紅葉シーズン。
ミドリ、赤、黄色とまだら模様の嵐山。

川の上流あたりは人気も少なく、川を眺めながら自然を堪能できる。

仁和寺(にんなじ)

嵐山からしばらく歩く。
昨日の雨とは違って青空が広がる観光日和。
しかし、面接後の日で着替えもってくるの面倒だったのでスーツ姿のまま観光。
仁和寺に着いた時は汗グダグダだった。

仁和寺といえば徒然草の「仁和寺にある法師・・」のあのお寺。
平安時代後期、光孝天皇の勅願で建てられ、仁和4年(888年)その子宇多天皇のとき完成。
最初は「西山御願寺」と称され、後に元号から仁和寺と呼ばれるようになった。

仁和寺の僧侶が石清水八幡宮にある時、思い立って1人で参詣したものの、八幡宮のある山に登らずにその麓のお寺をみただけで八幡宮に行ってきたと勘違いしているお話。
仁和寺はエリート僧集団で、エリートのような人物でもこういう勘違いはするもんだという内容。

二王門

仁和寺入り口は二王門が
門の左右に金剛力士像を安置している。
だけど仁王門ではなく二王門。
仁和寺は何度か大火災に見舞われ伽藍全体が焼き尽くされた過去がある。
現在の伽藍は江戸時代、徳川家光のときに再建されたものでこの仁王門もこのときに建てられたようだ。永平寺の山門のように、ここの門も威圧感がある。

伽藍配置

南庭

拝観受付を済ませ、左手の本坊表門に入り境内南西の御殿群(白書院、黒書院、辰殿)へ。
白砂の箒目(ほうきめ)が美しい枯山水の庭。

白書院(しろしょいん)の煌びやかな襖絵。このあたりの建物群は明治時代に火災によって消失。明治、大正時代につくられている。白書院の襖絵は、昭和12年福永晴帆によって描かれたもの。

辰殿からみた北庭

白砂、池と木々による北庭の枯山水と、背景の五重塔、茅葺屋根の屋根が見事な庭園。

霊明殿

黒書院の北側の廊下を進むんだところにある宝形造の建物が霊明殿。内部は一室で三間幅の仏壇には国宝の薬師如来像が安置されている。

勅使門

御殿群東に建つ正門。天皇の使者(勅使)のみが通行を許された門。大正時代に亀岡末吉によって造られたもので、枯草の透かし彫り彫刻がみどころ。

中門

中はけっこう広い。中門を通って他の場所を見物。

五重塔(重要文化財)

五重塔は1644年(寛永21年)、徳川三代将軍家光の寄進によって建立されたもの。
総高約36m。

金堂(国宝)

1613年江戸時代に建立された京都御所の正殿・紫宸殿を移築したもの。現存する紫宸殿としては最古のもので、寝殿造の遺構として重要な国宝文化財。

御影堂(重要文化財)

1613年江戸時代に建立された京都御所の清涼殿の用材を用いて建立されたもの。
弘法大師、宇多鳳凰像を祀る。

龍安寺

仁和寺から北へいくと龍安寺へ。
龍安寺といえば教科書にでてくる「枯山水」で有名なお寺。
ここきたかったんやわ~。

龍安寺は1450年(室町時代)に応仁の乱の東軍総大将細川勝元がこの付近にあった藤原北家の山荘を譲り受け建立したもの。その後西軍の攻撃を受けて一度は消失。その後、勝元の子政元によって再興された。江戸時代は、現在はよく知られた石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名だったようだ。
中を入ると、鏡容池を中心とした池泉回遊式庭園が拝観できる。

方丈庭園のある方丈の中。本来は狩野派の襖絵があったようだ。現在は廃仏毀釈により取り外され、昭和28年皐月鶴翁によって描かれたものが描かれている。

龍安寺の石庭は、1500年頃(室町時代)に作庭されたとも伝わるが詳細にはわかっていない。幅25m、奥行き10mほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の組み合わせで大小の石が配置されたその枯山水の庭は「方丈庭園」「七五三の庭」と呼ばれる。
「七五三の庭」とは、5+2=7、3+2=5,3の群ともみられることによる。この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されていることや、これらの石は全て織田信長の祖父織田信定が運んだことでも有名。

茶室前にある手水鉢(ちょうずばち)は「知足の蹲踞(つくばい)」と呼ばれている。このつくばいは、徳川光圀の寄進と呼ばれ、このつくばいをみたいがために参拝するほど有名なのだそうだ。(私はただ何気なしに写真撮ってたようだ)中央の水穴の四方に文字が書かれてあり、水穴の部分を「口」として共用し「吾唯足知 (われ ただたるを 知る)」と読むんだそうな。「金持ちでも満足できない人はできないし、貧乏でも感謝の心を持てば満足できる」と。(いやいや、金はあったほうが満足じゃよ。)

鹿苑寺(金閣寺)

最後は、金閣で有名な鹿苑寺へ。来た事あるようなないような。修学旅行のときは来てないものの、お土産で金閣寺の額縁を買って机の前において、毎日のように眺めていたので行った気分になっていたのかもしれない。

中は観光客でいっぱい。
というか、日本人よりも外国人の方が多かった。

額縁でみた絵のまんまの定番アングル。
金箔の輝きがたまらない。

裏側からは近づいてみることができる。

だんだん裏山のほうに移動していくと「白蛇の塚」という立札が。
こんな写真とったけ?
調べてみると「はくじゃのつか」と読み、遠くにみえる白い五輪の塔を指すようだ。
鹿苑寺は鎌倉時代は西園寺家所有のもので、室町時代になってから足利家のものになったもので西園寺家の名残のものらしい。
よこの看板には
「白蛇は弁財天の使い(神使)なり」
「弁財天は智慧(ちえ)、弁舌(べんぜつ)・芸能・福徳を与える神で家運を盛んにしてくれます」
と書かれてある。
つまり、西園寺家の家運をよくするものだったというもののようだ。西園寺家の家紋も左三つ巴なのも、蛇族と関係しているのだろうか。

裏から金閣寺を同じ目線で。

近くには左大文字山が。
時間は15時すぎ。
もう疲れたので早めに帰った。
さすが1日では京都市内はまわりきれぬ。

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真理の島 四国(愛媛、香川、徳島、高知)

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