旅行記29 京都東山地区探訪2(二条城、清水寺、三十三間堂)

コメダで昼食

京都東山地区観光第2弾。
まずは、京都中心にある二条城から観光し東山地区へ。
コメダ珈琲で腹ごしらえ。
名古屋の大学に通っていた上司から教えてもらった数少なかった店舗も、数年で急拡大。
2007年くらいはまだ名古屋しかなかった喫茶店も、2009年あたりから関西などでもチラホラみられるようになっていた。名古屋に旅行に行ったときは、コメダばかりいっていた。
ホットサンドがたまらんだぎゃー。
ありがとうコメダ珈琲。
今や近所にまでコメダさんがある。

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二条城

二条城は、京都駅の北にある世界遺産に登録されている平城。
二条城と呼ばれるものはいくつか存在するものの、現存するものは1603年、江戸幕府初代将軍の徳川家康によって築かれたもの。当時天皇の住んでいた京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊にするために築城された。
第3代将軍家光の時代になると、後水尾天皇行幸のために大改修され天皇を迎えることで、江戸幕府の支配が安定していることを世に知らしめた。

東西約500メートル、南北約400メートル総面積275,000平方メートル、外周約2kmのほぼ矩形の城。

右の領域が国宝二の丸御殿などがある敷地で、左の四角い領域が天守跡。
3が唐門でここから入場。

二の丸御殿唐門

唐門は二の丸御殿の正門で重要文化財建造物。屋根の前後に唐破風を備え、門として最も格式が高い。
冠木(かぶき)の上は龍や虎、鶴・亀・松竹梅といった長寿や吉祥を象徴する彫刻で埋め尽くされている。

二の丸御殿

唐門をくぐるとすぐ目にかかるのが、二の丸の中心的建造物国宝・二の丸御殿。
徳川家康が二条城の造営に着手したのは1601年で、現存する二の丸御殿の建物群はその20数年後の寛永期に大改修されたもの。時代劇のロケでも使われますね。

大政奉還

幕末大政奉還が行われた場所がこの中。

大広間

二の丸御殿の「大広間」。
二の丸御殿の諸殿のうちもっとも格式が高く、将軍の表向きの対面に用いられた。

二の丸庭園
特別名勝に指定。寛永3年(1626年)に後水尾天皇行幸のために作事奉行・小堀遠州のもとで改修された桃山様式の池泉回遊式庭園。庭園の石組は3つの方向から鑑賞できるように工夫され、現存する城郭の庭園の中でも特に優れた作品の一つに数えられている。


天守台から眺めた本丸御殿
本丸御殿の南側には、明治天皇行幸のために造営された芝庭風築山式の「本丸庭園」が広がる。

天守跡の上からの眺め
かつてあった五層六階の天守閣が1750(寛延3)年に落雷で焼失し以来再建されず。
ここから京都市内を一望できる。

清水寺

電車に乗って東山へ。
ここからは徒歩で観光。
清水寺は、南都六宗の一つ法相宗の大本山の寺院。
平安京以前からの歴史を持つ京都にある寺院は広隆寺、鞍馬寺とともに数少ない寺院の1つ。
修学旅行でもお馴染みなので、私もこれで3回目の探訪。
清水寺までのこの坂道も通った記憶がある人も多いでしょう。

778年延鎮上人が開山し798年坂上田村麻呂の創建と伝える。音羽山中腹に30近い堂塔伽藍が並ぶ。現在の主な堂塔は、1633年(寛永10)徳川家光の再建。世界文化遺産に登録されている。

清水寺を訪れると、まず目にするのが鮮やかな朱色が美しい仁王門。
1467〜1477年の応仁の乱のとき焼失し16世紀初めに再建。2003年に解体修理された。

遠方からも見える清水寺の三重塔は、高さ約31mと国内最大級で清水寺のシンボル的な存在。

本堂は江戸時代初期建築の国宝建造物。「清水の舞台」で知られ、前方左右に翼廊を出し、その間は板張りの舞台となっている。舞台は断崖上に架かっており、約12メートルの長い欅の大木の束柱を組み合わせて支えられている。坂上田村麻呂が長岡京の紫宸殿を賜って本堂にしたといわれている。
この時期は改修が行われていた。

お馴染みの「今年の漢字」。2011年版

この時期訪れたときは、冬入りのぎりぎり紅葉シーズン。
鮮やかな朱色というよりは、深みがかった赤色という感じかな。

紅葉やかえでの色合いが美しい。

こんだけ人が毎日乗っても大丈夫。イナバ物置

下から眺めると結構迫力がある。

三十三間堂付近

東山はいろいろと見どころが多い。
三十三間堂は、現在は妙法院の所有している天台宗の寺院。
後白河上皇(1127年 – 1192年)が平清盛に資材協力を命じて離宮として建てた法住寺殿の一画に建てられたのが三十三間堂。桃山時代には、豊臣秀吉による方広寺造営により、三十三間堂や後白河天皇法住寺陵もその境内に含まれ、周囲の築地塀などが整備された。
三十三間堂は、長さ120mの日本一長い木造建築物として知られている。
また、その中には1000体以上の仏像が安置されている。

撮影禁止なので画像はないが、大地震きたらぼろぼろ棒状の部分がぽろぽろ壊れそうなほどの数で密集している。

仏像画像は朝日デジタルのもの

三十三間堂の東隣に後白河上皇が眠る法住寺がある。
法住寺は、平安時代中期に藤原為光によって創設され、この寺を中心にしていた法住寺殿で後白河法皇の院政が営まれた。法住寺殿が木曾義仲によって焼き討ちされ、数年を経て後白河法皇も崩御すると、法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として現在にいたっている。

この付近は、大阪の陣のきっかけとなった方広寺や、幕末新選組が一躍有名となるきっかけとなった池田屋事件の池田屋跡もある。

普通の住宅街。
元の池田屋は人手に渡り廃業。1960年ごろまでは当時の建物も残っていたが、その後取り壊され、2009年に、居酒屋チェーンのチムニーが、居酒屋「海鮮茶屋 池田屋 はなの舞」を開業しているそうだ。

方広寺大仏殿跡

方広寺は豊臣秀吉が発願した大仏を安置するための寺として創建された寺院。方広寺は鐘銘事件で知られるが、豊臣時代から江戸時代の中期にかけて3代の大仏が造られ、その高さは約19mとされ日本一の高さを誇っていたといわれる。1798年に落雷で焼失し規模が縮小されつつも再建された、しかし、1973年失火により焼失し大仏は姿を消した。

耳塚(鼻塚)・・文禄・慶長の役

武士の戦では戦功の証として敵の首がその証とされていたが、足軽など身分の低い兵は首の代わりに耳や鼻をそぎ落として証としていた。耳塚(鼻塚)はその供養のための塚である。
豊臣秀吉による文禄・慶長の役では首をそのまま持ち帰ることが難しいことや、人身売買目的での誘拐(人取り)の抑制として行われた。耳や鼻の量が一定に達し戦功を挙げた者は人取りの許可をしたため大規模に行われた。運搬中に腐敗するのを防ぐために、塩漬、酒漬にして持ち帰ったとされる。

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