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弥生時代(紀元前5世紀ー紀元後3世紀半)

「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町の貝塚で発見された土器の発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことが由来です。弥生時代はかつて水稲農耕が始まった紀元前3世紀を始まりとされていましたが、調査が進むに従って紀元前3世紀よりもはやい縄文晩期には伝来していることが明らかになり時期区分が、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたものが、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつあります。 縄文時代は狩りや採集が主流の「狩猟採集社会」であったのに対し、弥生時代は水稲農耕に基礎をおく「水稲農耕社会 」であることが特徴です。この時代に渡来人が水稲以外にも青銅器、鉄器技術を伝え技術革新が起こりましたが、いっぽうで集落同士(ムラ)で争いが起こり、やがてクニとクニが争う「倭国大乱」が発生し平和であった縄文時代とは状況も一変していくことになります。

弥生時代の特徴とされてきたことが縄文時代に存在していたこと

・稲作、農耕
・高床式倉庫、大規模集落
・木工技術、布の服

最初に見つかった弥生式土器(東京大学総合研究博物館/重要文化財)

弥生時代早期(紀元前5世紀~紀元前3世紀)

弥生時代が始まると、食料獲得方法、集落、墓、土器、石器といった文化を構成する諸要
素がほぼ全て刷新されていきます。食料獲得方法はそれまでのあった狩猟採集から水稲農耕
に、集落は防御性をもつ環濠集落に、墓は支石墓や木棺墓が現れ、土器は開放型の野焼きから覆い型野焼きに変わり、石器は大陸系磨製石器と呼ばれるセットになっていきます。こうした新しい文化変革の背景には、渡来人の到来や寒冷化といった気候変動があげられます。
北部九州で紀元前10世紀~9世紀頃始まった水稲耕作が西日本に伝わり、やがて東北地方の一部まで伝わります(砂沢遺跡)。

渡来人の遺跡

弥生時代の幕開けは、大陸からきた渡来人のもってきた水稲技術、やがては青銅器、鉄器と深い関わりがあります。早期の時期は、九州北部で水稲が始まりますが、このときは渡来人との間に争いはなかったようです。

水稲農耕の広まり

縄文時代にも熱帯ジャポニカ米の陸稲農耕が行われていましたが、水田農耕の日本での始まりは紀元前10 – 9世紀の九州北部が最初とされています。紀元前9世紀の板付遺跡の環壕集落では既に集落内に階層差が存在したことが確認されています。かつて、稲作は朝鮮半島から伝わってきたとされてきましたが、弥生米のDNAは朝鮮半島には存在しない稲の品種が確認されており、、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されています。大陸から伝来してきた稲作は、九州北部に伝わり、紀元前8世紀頃に高知平野、紀元前7世紀に山陰、瀬戸内地域、 紀元前6世紀には濃尾平野、紀元前3世紀に東北地方に伝わります。日本の熱帯ジャポニカ米がそのまま水稲用の温帯ジャポニカ米に置き換わっていったのではなく、熱帯ジャポニカ米もいっしょに栽培され続けていたようです。

環濠集落 の伝来

環濠集落とは、周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のことです。水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落形態で、断面が深くV字形に掘られた環濠やその周辺に逆茂木と称されるような先を尖らせた杭を埋め込んでいるものもあり、集落に防御的機能をもたせたものと考えられています。環濠集落は九州北部から東部へ波及したと考えられていますが、2世紀後半から3世紀初頭には、環濠が各地で消滅していきます。

この時代の環濠集落は、沖積地の微高地に立地する低地型と台地・丘陵などの高所に立地する高地型があり、低地型は水濠で、高地型は空壕で囲まれています。この時期は主に低地型が主流で、高地型は中期あたりから増加してきます。

低地型

高地型

弥生時代早期の代表遺跡として、九州北部の江辻遺跡が知られています。

最古の弥生土器・・・ 板付遺跡

夜臼(ゆうす)式土器

板付式土器

画像:九州の古墳遺跡巡りさんのブログ

最古の弥生土器は、最古の水田遺跡でも知られる福岡県板付遺跡から出土しています。縄文時代晩期の「夜臼(ゆうす)式土器」と、弥生時代早期と言われる壺形の「板付式土器」が同時に出土したことから、最古の弥生遺跡であることが判明したようです。それ以前の縄文土器には壺形土器はほとんど用いられていないので、弥生土器の成立とともに、土器の利用法に変化が見られ壺形土器が重要な役割を担うようになったようです。

青銅器の輸入

日本で最も古い青銅器は紀元前10世紀の青銅刀子が山形県の三崎山遺跡から出土しています。この時期は大陸との交易で入手したとみられており、製造技術などの移入は見られていません。弥生早期でも、輸入品が主で福岡県の今川遺跡では遼寧式銅剣(満州から朝鮮半島、遼寧地方にかけて出土している銅剣。)の鋒と茎を銅鏃と銅鑿に再加工したものが出土しています。

参考:青銅器文化をもたらしたのは誰

日本で最も古い鉄器  石崎曲り田遺跡

石崎曲り田遺跡から出土した板状鉄斧
(出典:「弥生の鉄文化とその世界」北九州市立考古博物館)

現在のところ、我が国で見つかっている最も古い鉄器は、縄文時代晩期(弥生時代早期)つまり紀元前10世紀(当初3-4世紀とされていた)のもので、福岡県の石崎曲り田遺跡の住居址から出土した板状鉄斧の頭部です。鉄器が稲作農耕の始まった時期とほぼ合致することは世界的には珍しく,日本の弥生時代は世界的にも稀有な文化内容をもつ時代として認識されることになるきっかけとなりました。

参考:AMS-炭素14年代測定法が明らかにした日本の鉄の歴史

弥生時代 前期 (紀元前3世紀~紀元前1世紀)

農耕の技術革新は、寒冷化による人口減少の危機から回避することをもたらしてくれましたが、一方で人口と集落数増加は新たな問題を引き起こしていくことになります。それは、土地の権益をめぐる戦いが顕著になったことです。環壕集落を中核とした集落群同士の対立が激化し、戦闘では剣が武器となり、集落の防御化もより一層厳重化が進み、戦闘による死者が急増していきます。戦闘の指導者が次第に社会の指導者として成長し、首長としての身分を確立して身分の階層化がすすみ、やがていくつかの「クニ 王国」が成立していくことになります。

環濠集落の拡大

弥生早期に近畿では環濠集落はありませんでしたが、神戸市大開遺跡、四条シナノ遺跡(橿原市)や川西根成柿遺跡(同市、大和高田市)のように西日本全体の範囲まで広がりをみせてきます。
また、首長を葬る「墳丘墓」やたくさんの「甕棺墓地」も見られます。集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから「争い」が激しくなってきたことがうかがえます。

墳丘墓の出現

墳丘墓(ふんきゅうぼ)は、遺体埋葬地に土で塚を築いた墓。弥生時代前期から比較的小規模なものがみられ、弥生後期になると墳丘の規模が一気に大きくなります。方形周溝墓、方形台状墓、円形周溝墓の3形式が基本で、後期に円形台状墓が加わる。これらはやがて古墳へとつながっていきます。

発掘中の方形周溝墓

紀元前2世紀 日本最古の王国「早良王国」

3種の神器

福岡県西部相良平野の扇状地に広がる弥生前期末の吉武遺跡群から、天皇の証とされる「3種の神器」に相当する剣、鏡、勾玉の副葬品を持つ木棺墓が発掘され話題を呼びました。紀元前2世紀のものとみられ、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印で知られる奴国や卑弥呼の邪馬台国よりも以前にクニが存在していたことを示しており、「相良王国」と呼ばれています。紀元前後に王国は隆盛し、やがて伊都国か奴国に滅ぼされたと言う(元大阪市立大学名誉教授鳥越憲三郎氏等)。また、弥生前期としては初めての、「高殿」と呼ばれる大型建物の跡が発見されています。出土品や建物跡から見てこの地の被葬者達が朝鮮半島と強いつながりを持った人々であった事は間違いないようです。

高殿

吉武遺跡群 の場所

参考:日本最古「三種の神器」が出土。弥生時代の早良平野に繁栄した王国があった  

   紀元前2世紀、 福岡市西区早良平野にあった、 弥生初期の早良王国

弥生時代 中期 (紀元前1世紀~1世紀)

墳丘墓など祖霊祭祀の対象となる墳墓と祭殿などの祭祀空間、居住区、工房などを備えた中核的大規模環壕集落が成立します。鉄器が普及し始めたことで青銅製の武器が大型化し、実用品から祭器となります。武器の祭器化は武器形祭器を用いた戦神・軍事的祭儀が祖霊祭祀と合わせて社会結合の重要な構成要素となっていったことの表れと捉えられます。この段階では、「クニ」の領土拡張、あるいは「クニ」の領土防衛といった戦略的戦いが行われるようになったと考えられます。

環濠集落の拡大と高地性集落のはじまり

香川 紫雲出山高地性集落

中期には関東地域まで環濠集落が広まる一方で、瀬戸内沿岸から大阪湾を中心に高地性集落が形成されてきます。高地性集落は、弥生時代の一般的な集落からみて遙かに高い場所(平地からの比高差が50〜300メートル以上)に営まれている集落のことで、紀元50年~250年の年代範囲で盛んにつくられていました。

環濠集落の分布

高地性集落の分布

環濠集落

高地性集落

57年 漢倭奴国王

建武中元2年(57年)に後漢の光武帝が奴国からの朝賀使へ金印「漢委奴国王」を賜った記録があり、その金印が福岡県志賀島で発見されています。

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」

青銅器の国産化

弥生時代中期(紀元前1世紀~紀元1世紀)になると青銅器が国内で生産されるようになり、首長の権力も大きくなって北部九州には鏡、剣、玉の3点セットの副葬が盛んになります。朝鮮半島南部との交易も盛んで、大陸からの青銅器や土器のほかに、鉄器の交易が行われたことが釜山近郊の金海貝塚の出土品から伺われます。青銅製の小さな鐘が朝鮮半島から伝わってきますが、弥生人がそれ独自改良して制作したのが「銅鐸」です。この時期最大都市、佐賀県吉野ヶ里遺跡では、坩堝(るつぼ-溶解壺)や鞴(ふいご-送風装置)の羽口(送風口)などの精錬装置や、青銅器製作過程で出る銅滓(どうし-残りかす)や鋳バリが発掘されています。鉄は青銅よりも強度が強いため、鉄が武器や農具として普及すると青銅は主に祭祀用として利用されていくようになります。銅剣や銅矛などはもっぱら祭器として使われました。

銅鐸の作り方

エラー - NHK

鉄器の利用拡大

弥生時代中期中頃(紀元前後)になると鉄器が急速に普及します。それによって、稲作の生産性が上がり、低湿地の灌漑や排水が行われ、各地に国が芽生えます。
日本に輸入されてきた鉄器は 銑鉄を鋳型に流し込んだ鋳造鉄器品でした。これは炭素濃度が高く硬いもののもろい特性をもっていたため衝撃に弱く、武器としての使用には不向きでした。やがて、中国では鉄中の炭素濃度を減じる脱炭技術が開発され、武器に適した「鋼」が製造することが可能になります。日本の弥生時代中期ごろになると、このような「鋼」で作られた鉄斧の破片などが北部九州を経由して日本に運ばれ、再利用されたのです。
この時期にあたる福岡県の赤井手遺跡は、日本最古の鉄関連遺跡ですが、製鉄を行ったものではなく、鉄素材を加工し鉄器を制作していました。弥生時代に製鉄されていた遺跡は確認されておらず、製鉄開始は5~6世紀あたりに始まったと考えられています。

墳丘墓の巨大化

中期から権力者の墳丘墓も巨大化し、王墓も現れはじめます。

佐賀県 吉野ケ里遺跡・・・弥生中期の大型墳墓

佐賀県吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は、南北約46メートル、東西約27メートルで長方形に近く、高さ4.5メートル以上あったと推定されています。甕棺は弥生時代中期のもので、この時期に何故大型墳丘墓が出現したのかについてはまだ明確に分かっていません。

福岡県  三雲南小路遺跡 ・・日本最古の王墓

弥生中期後半になると、王墓が出現します。福岡県三雲南小路遺跡は溝で囲まれた一辺30メートル以上の墳丘で、日本最古の王墓と推定されています。2基の甕棺から57枚の以上の中国鏡が出土しています。

弥生時代 後期 (1世紀~3世紀)

中核的大規模環壕集落は施設・設備を拡充し、頂点とも言える形態を整えます。しかし、その後、徐々に徐々にあるいは急速に解体し、やがて姿を消していきます。この段階では、交易の拡大・領土の保全を共通利害とした「クニ」の連合化がはかられ、一方でより広い領域の覇権をかけた戦いが行われるようになったと考えられます。恐らく『魏志倭人伝』に記されている「倭国大乱」はこの段階の戦いを示していると思われます。新たに拡大していく政治秩序のもと、中核的大規模環壕集落を構成した首長の墓、首長の館、祭殿、クニの戦略的物資を納める倉庫群などは再編され再配置されていったと考えられます。

大規模環濠集落と終焉

後期になると、前期から存続してきた集落も大規模化し北部九州では佐賀県吉野ヶ里遺跡、近畿では大阪府の安満遺跡や池上・曽根遺跡、奈良県の唐古・鍵遺跡などの大規模環濠集落がみられるようになります。堀は二重・三重の多重環濠となることもあり、長大な環濠帯を形成して防御力が強化され、首長の居宅や祭祀用の大型掘っ立て柱の建物、金属器生産施設も行われていました。しかし、「倭国大乱」が終焉し卑弥呼統治下の2世紀後半から環濠集落はしだいに姿を消していきます。

北九州:佐賀県 吉野ケ里遺跡・・最大規模環濠集落

弥生時代最大規模環濠集落。最大の特徴とされるのが防御に関連した遺構です。弥生時代後期には V字型に深く掘られた2.5キロメートル におよぶ大きな外壕の中に内壕が2つあり、その中に建物がまとまって立てられ、さらに壕の内外には木柵、土塁、逆茂木といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていました。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていました。また、祭祀が行われる主祭殿、東祭殿、斎堂、食料を保管する高床式倉庫、貯蔵穴、土坑、青銅器製造跡なども発掘されています。

山陰:鳥取県 妻木晩田遺跡・・弥生最大規模高地性集落

鳥取県の妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)は標高90-120メートル前後の尾根を中心に立地した高地性集落で、面積が吉野ケ里遺跡の約3倍ある170ヘクタールにもおよびます。調査までに17.2ヘクタールが調査され、集落関係では竪穴住居395基、掘建柱建物跡502基、墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出されています。弥生時代後期終わり頃以降では鍛冶、玉造り、土器焼成などの活動が認められています。集落は紀元前1世紀から形成され始め次第に拡大し、2世紀後半に最盛期を迎え、古墳時代前期初頭(3世紀後半)までの約300~350年間にわたって営まれていました。

妻木晩田遺跡

近畿:奈良県 唐古・鍵遺跡・・近畿最大級環濠集落

奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地に位置する約30万平方メートル規模の吉野ケ里遺跡に匹敵する弥生時代前期から後期まで栄えた環濠集落。規模の大きさだけでなく、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見されています。全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られています。楼閣などの建物・動物・人物の絵画を土器に描く風習があったことも確認されています。

唐子・鍵遺跡

楼閣の描かれた土器の破片

楼閣復元

東日本:静岡県 登呂遺跡・・環濠のない水田集落

登呂遺跡は洪水による被害を受けながらも、弥生時代後期から古墳時代(1世紀~5世紀)まで続いた遺跡です。住居や高床倉庫の他に祭殿が建てられていたこと、住まいの区域と水田の区域の境に水路がつくられていたこと、水田の大区画の中を小区画に分けていたことなど、新しい事実が明らかになりました。登呂遺跡には外敵から守る環濠がないのが大きな特徴で、東日本領域では争いもなく平和が続いていたようです。

登呂遺跡の場所

祭器の分布と戦乱の関係

青銅器は主に祭器として利用されていましたが、銅矛は九州北部、四国西部での出土が多く、銅鐸は関西圏、四国東部など東部圏で出土数が多い傾向がみられます。銅矛の出土が多い領域では戦闘崇拝的傾向が強く、鉄器使用量、損傷した人骨が多数発見され争いが多かった跡がみられます。一方東になるほど鉄器の量、争いの跡も少なく平和的であったようです。

銅矛・銅鐸分布

鉄器分布

参考:古代日本の歴史を謎解きさんのブログ

108年 倭国は100余国に分かれていた

『漢書』地理志

「楽浪」とは、前漢の武帝が紀元前108年に設置した「朝鮮4郡」の一つ「楽浪郡」のことで、今の北朝鮮・平壌の付近。漢時代の日本は 百余国に分かれていたことが記されています。

「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。

146年ー189年の間 倭国大乱卑弥呼の養生

2世紀中~後期にかけて倭国が乱れて騒乱がおこります。争乱は長く続いたものの邪馬台国の一人の女子卑弥呼を王とすることで国中が治まったとされています。

『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。

『後漢書』卷85 東夷列傳第75
「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年 – 189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。

193年 寒冷化 日本から朝鮮へ食料を求め渡航

2世紀後半から寒冷化が始まり土地収奪争いにあったとする説があります。『新羅本記』に「十年(193年) 六月倭人大饑。来求食者千余人」と記されており、日本から朝鮮半島へ1千余人が渡ったと記録されています。

3世紀~3世紀半 卑弥呼の統治 文化情勢の変化

倭国大乱の歴史的意義として、卑弥呼を中心とした新たな政治体制が再編成されたことが挙げられる。近畿地方・中国地方などで2世紀まで盛んに創られた銅鐸が3世紀になってから急速に作られなくなっている点、環濠集落も消滅していくなどの動きから倭国大乱と3世紀前半の卑弥呼による新政治体制は文化面でも大きな影響を与えた可能性があると考えられています。

卑弥呼の邪馬台国統治

景初二年(238年)12月 – 卑弥呼、初めて難升米らをに派遣。魏から親魏倭王の仮の金印と銅鏡100枚を与えられた[1]

正始元年(240年) – 帯方郡から魏の使者が倭国を訪れ、詔書、印綬を奉じて倭王に拝受させた。

正始四年(243年)12月 – 倭王は大夫の伊聲耆、掖邪狗ら八人を復遣使として魏に派遣、掖邪狗らは率善中郎将の印綬を受けた。

正始六年(245年) – 難升米に黄幢を授与。

正始八年(247年) – 倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告した。魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢を授与。

倭国の新羅攻略

『三国史記』新羅本紀によると、卑弥呼の時代に新羅を数度攻略していた記録も残されている。


173年 – 倭の女王卑彌乎[4]が新羅に使者を派遣した。

193年 – 倭人が飢えて食を求めて千人も新羅へ渡った。

208年 – 倭軍が新羅を攻め、新羅は伊伐飡の昔利音を派遣して防いだ。

232年 – 倭軍が新羅に侵入し、その王都金城を包囲した。新羅王自ら出陣し、倭軍は逃走した。新羅は軽騎兵を派遣して追撃、倭兵の死体と捕虜は合わせて千人にも及んだ。

247248年 卑弥呼死去

卑弥呼が死に、墓が作られた。男の王が立つが、国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。倭の女王壹與は掖邪狗ら20人に張政の帰還を送らせ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。

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