C:イランの文化(エラム~ペルシャ~サーサーン朝)

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現在のイランはイラン高原に住み着いたエラム人が最初の文明を起こすことで歴史に登場します。エラム人は後にメソポタミアの東平野「エラム(スーサとアンシャン)」に住みつき都市国家を建国します。 その後、ファールス地方(ペルシア)に住み着いたアーリア人からでたキュロス2世がアルメケス朝ペルシアを建国、エラムからペルシア人への支配がはじっていきます。ペルシア人はザウスシュトラによる世界最初の宗教ゾロアスター教(サーサーン朝ではズルワーン教)を信仰しオリエントに巨大帝国を築いていきます。 最後のペルシア帝国サーサーン朝を最後に、ペルシア、ゾロアスター教はイスラム勢力に押されて勢力を失っていくことになります。

先史時代(紀元前10万~3200年頃)

イラン高原

イラン地方ではイラン高原で約10万年前(旧石器時代)中期以降に遺跡が確認され、人類の活動があったことがわかっています。
イラン高原への定住は約1万8000年前頃と考えられており、気候の変動によって居住地が移動しやがて麦を中心とした農耕も早く始まっていました。紀元前6000年頃には高度な農耕社会を形成し、最も初期のテぺ・シアルク遺跡からは先史時代を知る上で重要な遺物が多数みつかっています。

テぺ・シアルク 遺跡

テペ・シアルクは、イラン中央部に存在する原エラムによる紀元前5500–6000年頃の大規模な集落遺跡。「テペ」はペルシア語で「丘」または「塚」を意味します。 製陶技術も発達し、非常に精巧な文様や動物の図柄を用いた絵付き陶器類、彩文土器や紡錘車も発見されています。

紀元前4000年頃の陶器。

紀元前4000年頃の陶器の壺。

シアルクから出土した陶器。

エラム時代(紀元前3200~539年頃)

メソポタミアの東、現代のフーゼスターンなどを含むイラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域を「エラム」と呼んでいました。エラム人は系統不明のエラム語を話す人種のこと。イランの歴史時代は紀元前3200年頃からエラムの地に定住したエラム人によって文明が始まり、後のペルシャ人(アーリア系イラン人)へと引き継がれ後世のイランに有形無形の影響を残し続けていくことになります。

首都スサ(スーサ)

スサは現在のイランの西南部に位置し。紀元前30世紀から紀元前7世紀に跨がるエラム王国の首都。紀元前647年、アッシリアのアッシュールバニパルによって破壊された後(スーサの戦い)、紀元前540年、アケメネス朝ペルシャに占領されてからは王の道の起点として再び栄えました。
1218年モンゴルの侵略後、住民のほとんどは移動し現在は小さな集落のみとなっています。

スサの出土物

スフィンクスの像

原エラム時代(紀元前3200~2700年頃)

紀元前3000年頃になると、都市スサ(スーサー)を中心とするイラン高原西部の平野部へと文化圏が移動します。この地には エラム人が住み高度な国家機構を整え、後にはメソポタミアの諸王朝と戦火を交えていくようになります。原エラム期とは、スサがイラン高原の文化から影響を受け始めた紀元前3200年から紀元前2700年までの時代を指し、イラン最古の文明になります。

段模様の衣装をまとい、注ぎ口のある器を掲げるこの小さな雄牛の像は、人間と動物の特徴をあわせ持っています。人間のしぐさをする動物の作品は、初期イラン美術に多く見られ、自然の力の象徴、または神話や寓話の主 人公を表していると考えられています。中空の胴の中に小石が入っているこの像は、儀式において鳴物として使われた可能性もあります。発掘された時に布地の破片が付着していたことから、儀式の一環で意図的に埋められたのではないかと思われます。

引用元

片口の器を持つひざまずく雄牛
紀元前3011–2900年頃

原エラム文字

メソポタミアで楔形文字が利用され始めた紀元前3000年頃、この地域でも最初のイラン固有の文字体(後にエラム文字となる)エラム文字が使用されていました。使われていた地理的な範囲は非常に広くインダス文字と似ているといった特徴があります。

スーサで出土したウルク期の粘土


古エラム時代(紀元前2700~1600年)

最初の王朝が紀元前2700年誕生したアワン朝。記録記述の多くは多分に伝説的なものであり、編年を明らかにするのは不可能な時代とされています。アワン王朝 最後の王クティク・インシュシナクはウル第3王朝の創設者ウル・ナンムと同時代人であったと考えられており、彼はスサとアンシャンを征服して、イラン高原における初の統一的な政治勢力を形成しました。しかしアワン朝は間もなくウル第3王朝のシュルギ王の攻撃を受けて崩壊し、シュマシュキ朝が成立します。
シュマシュキ朝は ウル第3王朝を滅亡した後、メソポタミア各地に成立したアムル系王朝と対立します。
紀元前1900年頃にはシュマシュキ朝にかわってエパルティ朝 (スッカル・マフ) がエラムの支配権を握ります。たびたびバビロンと戦火を交えていましたが、エラム人のバビロニアでの影響力は長続きしませんでした。やがてカッシート人、フリル人などの移動に伴い、エラム各地にフリル人が移住し諸都市にはフリル人の王を頂く都市が多数出現しエラムは衰退していきます。

シュマシュキ朝 の像

裸の女性の小像ウル第三王朝
2000-1940紀元前。

武器を持った裸の男ウル第三王朝
2000年-1940年紀元前

アーリア人の到来

アーリア人の移動
図参考

アーリア人は中央アジアで遊牧生活を営んでいた遊牧民。
紀元前 2000年頃からその一部が南下し、イラン高原、インド方面へと移動します。
イラン高原方面のアーリア系の人々(イラン人)は、 紀元前1千年紀の始め頃までにイラン高原全域に定着していきます。彼らは切妻型の屋根を模した石などを載せた塚状の墓を築き、ライオンや山羊、馬などをあしらった新しい彩文土器を用いていました。9世紀ごろになると、イラン高原に定住したアーリア人はゾロアスター教をつくったペルシャ人やメディア人として王国を築き歴史に記録を残していくようになります。
インド方面のアーリア人は、インダス川上流地方に侵入,インダス文明をつくった先住民に代り,またこの文明を部分的に取入れて定住農耕生活に入ります。その一部は前 1000年頃東のガンジス川流域に侵入,先住民を征服してこれと混血し,のちにバラモン教をつくりインド文明発展の主役となっていきます。

中エラム時代(紀元前1600~1100年)

紀元前1500–1200年ごろの金の彫像

衰退するエラムに「アンシャンとスサの王」を称したイゲ・ハルキ朝が成立し、再び強力な政治的統合体が現れます。一時カッシート朝(バビロン第3王朝)に服属するも、紀元前1230年頃には、カッシート朝へ二度にわたって侵攻し滅亡させます。バビロンを陥落させ、マルドゥク神像の略奪、ハンムラビ法典の石碑もこのときスサへ持ち込まれることになります。エラムはこの時期オリエントで最も強大な国家となっていきましたが、やがてバビロニアで勃興したイシン第2王朝の王 ネブカドネザル1世 による侵攻で大打撃を受け紀元前1100年頃スサが占領。マルドゥク神像が奪還されます。

新エラム時代(紀元前1100~539年)

ネブカドネザル1世の攻撃以降、エラムは300年にわたる弱体化と混乱の時代を迎えることになります。エラムに新たな時代が訪れるのは紀元前8世紀頃にフンバンタラ朝が成立してからになります。 フンバンタラ朝 はアッシリアとバビロニアの争いにバビロニアを助ける形でたびたび介入するも、最後はアッシリアにスサを破壊され大国としてのエラムの歴史は終わりを告げます。更にその後、紀元前539年キュロス大王率いるアケメネス朝ペルシアの支配下に入り、 ここにエラム王国は歴史から姿を消えることになります。

ゾロアスター教・・・世界最古の宗教

ゾロアスター教の守護霊フラワシ像

イラン高原に住んでいた古代アーリア人は、ミスラヴァーユといった様々な神を崇拝する多神教民族でした。後にザウスシュトラが、このイラン高原の多神教崇拝をアフラ・マズダ―を信仰対象として創設したのが「ゾロアスター教」です。ゾロアスター教は世界最初の宗教とも称され、この教義の最大の特色は、善悪二元論と終末論です。善神アフラ・マズダーと悪神アンラ・マンユの両勢力が互いに争い、生命・光と死・闇との闘争の世界観に基づき、善の優位性が確定されていることから「世界最初の1神教」と言われることもあります。光(善)の象徴としての純粋な「火」を尊ぶため、拝火教(はいかきょう)ともいい、偶像崇拝はなく様々な宗教に影響を与えていきます。
イランの古い習慣も、3つの社会階層が服装の色調系統により識別されていき、軍事関係者や戦士は赤、ゾロアスター教の司祭は白、村落に住む人々は青といった色調の服装を身に着けていたようです。
紀元前6世紀のアケネメス朝ペルシア成立時、ペルシア人のほとんどが信仰し、サーサーン朝ペルシア時には国教として聖典「アヴェスター」が整備されました。7世紀頃イスラム教の広がりとともに衰退し、その活動はインドへ移り現在信者は10万人程度の規模になっています。

アフラ・マズダとミスラ
ミスラは司法神であり、光明神であり、闇を打ち払う戦士・軍神であり、牧畜の守護神としても崇められた。古くはアフラ・マズダーと表裏一体を成す天則の神だったが、ゾロアスター教に於いてはアフラ・マズダーが絶対神とされ、ミスラはヤザタの筆頭神に位置づけられた。このような変化があったものの、「ミトラはアフラ・マズダーと同等」であることが、経典の中に記され、初期の一体性が保存された。中世の神学では特に司法神としての性格が強調され、千の耳と万の目を以て世界を監視するとされる。ミトラはギリシャ語形・ラテン語形でミトラース(Μίθρας、Mithras)と呼ばれ、太陽神、英雄神として崇められた。

右ミスラ

ペルシア帝国時代

ペルシアとは

ペルシアは、現在のイランを表すヨーロッパ側の古名で、イランの主要民族・主要言語の名称です。歴史的には、古代ペルシアのパールサ地方 (現代のイランでファールス地方 )が起源になり、ギリシャ語ではペルシスと呼ばれていました。ペルシア帝国とは、現在のイランを中心に成立していた歴史上の国家を指し、一般的にはアケメネス朝・アルサケス朝・サーサーン朝に対する総称として使われます。

イランとファールス地方(黄緑)

アケメネス朝(紀元前550-330年)

アケメネス朝は、キュロス2世によって建国されたペルシャ初の帝国。キュロス2世はメディア王国、リディア王国、新バビロニア王国を滅ぼし、新バビロニア王国により移住させられたユダヤ人を解放し、バビロン捕囚を終焉させます。キュロス2世の息子カンビュセス2世はエジプトを併合して古代オリエント大帝国を築き上げました。ダレイオス3世のときマケドニアのアレクサンドロスにより征服され滅亡します。

紀元前7世紀後半、ペルシャ人の長ティスぺスは衰退しつつあったアンシャン(ファールス地方)を征服し「アンシャン王」を名乗ります。以来しばらくの間アケメネス朝の血統はアンシャン王とペルシア王の二つに分かれていました。 アッシリアの衰退後はアーリア人のメディア王国が勢力を伸ばしペルシャはその支配下にありました。 紀元前550年、メディア人とペルシア人の混血であるアンシャン王キュロス2世が反乱を起こし メディアの将軍ハルパゴスの助けを得てメディアを滅ぼします。 この時をもって、統一王朝としてのアケメネス朝が始まったとされています。 さらに小アジアのリュディア、エラム、メソポタミアの新バビロニアを滅ぼし、紀元前525年にキュロスの息子カンビュセス2世がエジプトを併合してオリエント世界を統一します。

アケメネス朝ペルシャ

キュロス2世

ダレイオス1世時代のアケメネス朝の領域

首都ペルセポリス

紀元前520年ダレイオス1世がペルセポリスの建設に着手。アケメネス朝ペルシア帝国の首都とされてきました。紀元前331年、アレクサンドロス大王の攻撃によって破壊され以後廃墟となっています。

セレウコス朝(紀元前312 ー 64年)

アレクサンドロス3世 (大王)の帝国が分裂したあと後継者戦争が続いていた中, マケドニア系ギリシア人 部将の一人であったセレウコス1世がバビロンを拠点として西アジアを支配し王朝(別名シリア王国)を築きます。

アルサケス朝(パルティア)ペルシア(紀元前247ー紀元後228年)

アルサケス朝は 中央アジアの遊牧民の族長アルサケス1世によってパルティアで建国され、ミトラダテス1世の時代以降、現在のイラク、トルコ東部、イラン、トルクメニスタン、アフガニスタン西部、パキスタン西部にあたる、西アジアの広い範囲を支配下に置きセレウコス朝後オリエントを支配したイラン系帝国です。紀元前1世紀以降、地中海世界で勢力を拡大するローマと衝突し、アルメニア、シリア、メソポタミア、バビロニアの支配を巡って争っていました。末期には王位継承を巡る内乱の中で自立したペルシアの支配者アルダシール1世によって滅ぼされ、新たに勃興したサーサーン朝に取って代わります。

初代王とされるアルサケス1世は、古代中央アジアイラン系部族。パルティア地方はイラン北東部に位置する地方で、かつてはアケメネス朝、セレウコス朝の支配下にありました。紀元前3世紀半ば弱体しつつあったセレウコス朝の支配からパルティア総督アンドラゴラスが独立。アルケサス1世はアンドラゴラスを破ることでパルティア地方を支配下に置きアルサケス朝が成立します。
大きく支配を拡大していくのは真の貢献者とも評されるミトラダテス1世の治世中で、パルティア帝国の版図はパルティア本土、ヒュルカニア、メディア、バビロニア、アッシリア、エリマイス、ペルシャ、タプリア、トラクシアナにわたります。(紀元前138年)ミトラダテス2世の時、パルティアの支配を更に西方まで拡大した後、アルメニア王国を征服。

アルサケス朝版図

前1世紀半ばのパルティアは主としてローマに対して積極策に出て、西部国境の安全を勝ち取ることに集中していきます。首都は当初はニサでしたが、その後ヘカトンピロス、さらに紀元前129年にはクテシフォンが建設され、この新都を中心に繁栄します。しかしその子フラーテス2世や、次王アルタバヌス2世の時、南下してきた遊牧民サカ人やトハラ人との戦いに敗れたのを機に国内の統一は崩れて混乱していきます。紀元前123年ごろ即位したミトリダテス2世の時代に帝国は復興したものの、ローマ帝国と衝突し長期化していきます。パルティアは長年にわたるローマとの戦闘で国力が衰え、226年ファールス地方に興った新勢力サーサーン朝ペルシアのアルダシール1世によって滅ぼされました。

パルティア時代の服装

フリュギア帽をかぶったパルティア人(右)

サーサーン朝(ササン朝)ペルシャ(226年 – 651年)

サーサーン朝は、アケメネス朝と同じくイラン高原ファールス地方から勃興した勢力です。その支配はおおよそアナトリア東部、アルメニアからアムダリア川西岸、アフガニスタンとトルクメニスタン、果てにウズベキスタン周辺まで及びます。特に始祖 アルダシール 自身がゾロアスター教の神官階層から台頭したこともあり、様々な変遷はあったもののゾロアスター教と強い結びつきを持った帝国でした。

サーサーン朝はイラン南西部パールス(現、ファールス)地方にあった古代のペルセポリスの祭司長ササンの孫でアルダシールが建国します。
アルダシールは226年パルティアを破って首都をクテシフォンに定め、「諸王の王」というアルサケス朝の称号を引き継いで使用します。さらに西はメソポタミア、アルメニア、東はクシャーナ朝との闘いに勝利し旧パルティア領のほとんどを支配下にします。以後サーサーン朝とローマ諸王朝はサーサーン朝の滅亡まで断続的に衝突を繰り返すことになります。

5世紀頃のアジア

その子シャープール1世のとき、260年にシリアでローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜とし、サーサーン朝の基礎を固め「イランと非イランの諸王の王」と号し、後のサーサーン朝皇帝の正式称号となります。シャープール2世時代に発展期を迎え、ホスロー1世時代にはインドのグプタ朝と境を接して交易を盛んにし、シリア、イエメンを奪ってサーサーン朝最大の領域を占めました。この時期、宗教関係では『アヴェスター』などのゾロアスター教の聖典類も書籍化されます。
ホスロー1世の子ホスロー2世は、長年に渡る戦争と内政を顧みない統治で疲弊を招いた結果、628年に反乱が起こり息子のカワード2世に裏切られ殺害されます。跡を継いだカバード2世以後は混乱期となりイスラム教徒の侵入を受けるようになります。
642年、29代目で最後の王ヤズドガルド3世はネハーバンドの戦いに敗れ、イラン全土がイスラム教従によって征服されていくことになります。651年にヤズデギルド3世は裏切りで殺害され、サーサーン朝は完全に崩壊します。ペルシャを征服したイスラム勢力は、ペルシャの技術や学問を吸収することで急速な発展を遂げていきます。
一方でゾロアスター教は国教から二等宗教へと転落し、信者はさまざまな差別待遇を受けたため、ゾロアスター教徒の数は徐々に減少し一部の信者はインド亜大陸へと亡命していくことになります。

サーサーン朝時代の服装

銀貨

サーサーン朝では、直径3㎝の大型で薄い高純度の銀貨を多数発行していました。片面は王冠を被った王の横顔うの肖像画、もう片面には拝火檀並びに2名の守衛像と、発行地・発行年を示すパフラヴィー語銘文を記しています。

アルダシール1世のコインWikipedia

工芸品

ガラス器や銀製品、布などの手工芸品は、世界史上に残る工芸品で、7世紀奈良時代日本に渡来した文物は、正倉院に今も収められています。

ペルシャ錦

奈良・正倉院の宝物「白瑠璃碗」
「日本美術全集 正倉院 」学研

ズルワーン教・・・サーサーン朝の国教

ズルワーン教は、ゾロアスター教の分派で最高神ズルワーン神を崇拝する宗教。
一般的にはサーサーン朝ペルシアの国教はゾロアスター教とされていますが、ザウスシュトラの唱えた原始的なゾロアスター教とサーサーン朝の国教化されたものにはずれがあり、サーサーン朝のゾロアスター教をズルワーン教といいます。サーサーン朝期のズルワーン主義と二元論的ゾロアスター教が別組織に所属していたのか、同一組織の中に二つの傾向があったのかは分かっていません。

原始ゾロアスター

ズルワーン教(サーサーン朝ゾロアスター教)

マニ教・・・世界混合宗教

マニ参照Wiki

サーサーン朝時代は、インド、ローマ、中国、クシャーナといった大国と関わりこれらの国の中心地であったので、国教のゾロアスター教以外にも西からキリスト教(ネストリウス派など)、東から仏教が伝来していました。マニ教は教祖マニによってキリスト教、ゾロアスター教、仏教などの諸宗教を混合した宗教です。
サーサーン朝の元では、シャープール1世の庇護を受け 廷臣として取り立てられます。そして自ら聖典を書き記し、教団の組織化、伝道活動に従事します。しかし、シャプール1世の死後はゾロアスター教神官カルティールが台頭し、マニは処刑されてしまいます。 その後、マール・スィースィンがその遺志を継ぎますが殺害されてしまいます。 マニ教は、過去に興隆したものの現在は中国福建省にマニ教寺院が現存するのみとなっています。

マニ教の宇宙論

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