J:日本の歴史(旧石器~縄文時代)

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日本列島の形成と日本人の誕生

パンゲア大陸

2億6000年前の地球は1つの大陸(パンゲア大陸)でした。やがて、1つの大陸が分裂し、現在の日本の弧状形状をした日本列島ができあがったのは、約1500万年前。まだ、この頃は人類は生まれていません。約700万年前に南アフリカで人類が誕生、進化し、現在の人類種ホモ・サピエンスは7万年前にアフリカをでて大陸を渡りはじめます。日本へは 今から約4~3.5万年前 に北海道、対馬、沖縄の3ルートから日本列島に渡り土着したと言われています。

日本人のルーツ

日本人の原点は4~3.5万年前にアフリカ大陸からきたホモ・サピエンスと言われていますが、実はそれ以前にも旧石器時代に旧人が住んでいた痕跡も発見されています。現代の日本人は、もともといた土着民と何度かにわたってきた渡来人が混血しあうことで形成されたものと考えられています。
なかでも、主要に日本人を形成したのは、「 ウルム氷期の狩猟民(縄文人)」と「弥生時代の農耕民(弥生人)」とが渡来したことでした。
「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果わかったようです。
そして縄文時代終末から弥生時代にかけて、水田技術をもった農耕渡来人が九州地方に渡来してきます。縄文時代は争いのない時代でしたが、弥生時代になると戦争の痕跡が残っていることから、渡来人と縄文人との間で争いもあったものと考えられています。九州から東北にかけて水田技術とともに東進し、日本本土では縄文人と渡来人が融合して弥生人となっていきます。渡来人の直接及ばなかった北海道(アイヌ人)や南西諸島の 地域(琉球)は現代もなお縄文人的形質をとどめているものと考えられています。

 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。

参考:「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!

引用:http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20140829/413347/001.jpg

旧石器時代(~紀元前1万4500年頃)

旧石器時代の人々は、食糧を求めて採取や狩りを行い、定住せずに移動を続けていたようです。人々の住まいの状況はよくわかっていませんが、洞穴で暖をとったり、木や枝を組合わせた骨組に覆いをかけた程度の簡単な住まいであったようです。

前期・中期旧石器時代(~紀元前3万5000年頃)

日本は酸性の土壌が多いため、骨などが残りにくく前中期の遺跡は発見が難しい面があります。数は少ないものの、この時期の遺跡として、島根県出雲市の砂原遺跡(約12万年前)、岩手県遠野市の金取遺跡(9〜8万年前)から石器が発見されています。

紀元前12万年前 砂原遺跡(ホモ・サピエンス以前の最古の石器!?)

日本で最も古い石器が砂原遺跡の12万年前のものです。現人類のホモ・サピエンスは7万年前にアフリカを出4~3.5万年前に日本に到達したものと考えられており、それよりも古いものになります。このことから、この石器をつくったのはデニソワ人などの旧人と考えられます。(しかし、日本で旧人の人骨は発掘されていません。)

砂原遺跡:出雲市多技町

砂原遺跡
広報いずも第110号

紀元前9万年前 金取遺跡

金取遺跡は、約9万年~3万5000年前の旧石器時代人のキャンプ跡と推測されています。狩猟の途中で、この地でキャンプをし、たき火で暖をとり、石器を作り、ナイフ様の小型石器で皮を剥ぎ、骨から肉を削ぎ取り、肉を焼いて食べたりしながら、しばらくの期間、生活をしていたようです。

金取遺跡 :岩手県遠野市

金取遺跡の石器

後期旧石器時代( 紀元前3万5000年-1万3000年頃 )

約4~3万年前にかけて世界最古とされる磨製石器(局部磨製石斧)が多数発見されており、すでに列島では独自の磨製石器の使用が見られます。古く北海道と九州方面は大陸と地続きで(つながっていなかったという説もあります)、ナイフ形石器と呼ばれる石器が列島全域で広く使用されていました。約2万年前にはシベリアからきた細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まり、しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ形石器文化が併存した時代が続き、約1万5千年前ごろにはナイフ型石器は姿を消し細石刃が列島全体に広まります。

ナイフ形石器
3万年前頃から1.4万年前頃存在

細石刃
新潟県で発掘された前16000年と推定される

紀元前4万年前 高原山黒曜石原産地遺跡群(世界最古の磨製石器)

黒曜石でつくられた矢じり

栃木県の高原山は、日光市と塩谷町、那須塩原市、矢板市にまたがる火山で、黒曜石、石刃製ナイフの原料となる緑色凝灰岩の産地です。

栃木県高原山

参考: 高原山黒曜石原産地遺跡群

紀元前3万~1万3000年(はさみやま遺跡 日本最古の住居跡)

はさみ山遺跡は、大阪府藤井寺にある後期旧石器時代(3万年 – 1万3000年前)の住居跡。 住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本で竪穴住居であったと推定されています。

紀元前2万5000年 岩戸遺跡(日本最古の女神像?)

大分県岩戸遺跡から 1967 年に発見されたもの。
長さ 9.6cm でコケシ形をした石製品。頭部の目と鼻・口の位置を敲打して凹め,後頭部には髪を敲打して表現しているとされています。シベリアのマリタ例などと比較して女性像と主張されていますが、目・口・髪の表現はそれほど明瞭なものではなく、乳房や女性器の表現はなく,むしろ、男根の表現がちかいため、女性像と断定しにくい点があります。この時代には何等かの信仰が あったことがうかがえます。

 岩戸遺跡 大分県

紀元前1万7000年~紀元前4000年 縄文海進はじまる

1万9000年前から海面上昇

12000年前~10000年前の瀬戸内の地図
この頃は四国と本州は陸続きだった。

縄文海進(じょうもんかいしん)は、最終氷期の最寒冷期後(約19,000年前)から始まった海水面の上昇を指し、日本など氷床から遠く離れた地域で100メートル以上の上昇となり(年速1 – 2センチメートル)、ピーク時である約6,500年 – 約6,000年前まで上昇が続いた(日本では縄文時代)。現在はピーク時から海水面は約5メートル低下した。またピーク時の気候は現在より温暖・湿潤で平均気温が1 – 2℃高かった

縄文時代 (紀元前13000年- 紀元前1000年 )

更新世末に気候が温暖化した結果、海面が上昇し、約1万年前の完新世に入るころまでには日本は大陸と切り離されて日本列島となります。気候の変化は、また日本列島の動物相・植物相に大きな影響を与え、亜寒帯性・冷温帯性の針葉樹林にかわり、東日本にはブナ・ナラなどの落葉広葉樹林、西日本にはシイ・カシなどの照葉樹林(常緑広葉樹林)が植生します。縄文時代は、温暖な気候になって植物も多く自生するようになったことから、人々は旧石器時代と同じく食物やケモノを求めて移動を続けますが、その行動範囲も狭くてすむようになり、ついには一か所に定住し、ムラを営むようになります。

縄文草創期  (紀元前1万3000年- 紀元前9500年 )

旧石器文化から縄文文化に移り変わる頃、世界最古となる土器が発明され使用されました。最終末の旧石器である細石器(さいせっき)や槍形(やりがた)石器などが、一緒に使われていました。長きにわたった氷河時代の寒冷気候から温暖化に変わる気候の変化が、新たな土器の文化を生み育んだと考えられます。
縄文時代草創期に土器が利用されても,動植物を探して場所を変えながら移り住む旧石器時代の人とあまり変わらない生活をしていましたが,草創期も中ごろになると村を作り,ある場所に長く住みつく人が出てきたようです。.

紀元前1万3000年 大平山元I遺跡(世界最古の土器)

大平山元Ⅰ遺跡(おおだいやまもといちいせき)は、青森県東津軽郡外ヶ浜町にある旧石器時代終末期から縄文時代草創期の遺跡。大平山元遺跡は、後期旧石器時代後半期(約2万年前)から縄文時代草創期(約1万3千年前)までの各時期の変遷や、日本列島各地との交流関係等を追うことができる極めて重要な遺跡。

津軽半島には、大平山元遺跡、縄文時代中頃の三内丸山遺跡、縄文時代晩期の亀ヶ岡遺跡があります。

紀元前1万3000年- 紀元前9500年 縄文草創期の土器

土器は底が丸く尖った形状をしているため、石で囲んだりや土に埋めて固定し火を焚いて調理したものと考えられています.最古の土器は無文で、その後、隆起線文土器、爪形文土器と変遷し、約1万年前に縄目の模様がついた多縄文土器が登場します。

丸底深鉢形土器 縄文草創期 横浜市都筑区花見山遺跡出土

紀元前1万3000年- 紀元前9500年 縄文草創期の土偶(女神像)

紀元前1万2500年頃 
愛媛 上黒岩遺跡

日本列島では,25,000 年前の大分県岩戸で「こけし形の石偶」の後,長い空白期間をおいて、縄文草創期中頃,14,500 年前に愛媛県上黒岩に扁平な円礫に乳房と性的三角形を線刻した線刻女神像が現れます。

線刻女神像は長い髪・大きな乳房・こしみの・かすかにわかる逆三角形を、鋭い石器などで小さい緑泥片岩に描かれています。これは信仰の対象であっただろうといわれており、日本での出土は上黒岩岩陰遺跡が初めてで、南ヨーロッパにも類似のものが出土している貴重なものです。

紀元前1万1000年前後 
三重県 粥見井尻(かゆみいじり)遺跡

1996年に三重県松坂市粥見井尻遺跡で、女性の上半身(頭部・胸・腹部)を形どった土偶が発見され、相谷熊原の土偶が発見されるまでは「日本最古級の土偶」とされてきました。この遺跡からは、縄文草創期の竪穴式住居跡が発見されています。土偶は2つ発見され、うち一つは完全な形で残っていました。全高6.8cm、横幅4.2cm、厚さ2.6cmで頭部、手足はなく逆三角形をしており、ヨーロッパでみられる像に比較すると、インパクトの強い性の露骨な表現は弱い感じです。

紀元前1万1000年前後 
相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡

2010年滋賀県東近江市集落遺跡の相谷熊原遺跡から、粥見井尻遺跡とほぼ同時代とみられる女神の土偶像が発見されました。高さ3.1㎝、重さ14.6gの指先サイズ。女性の丸みをおびた豊満な上半身部のみの形状で、乳房、腰のくびれが明瞭に表現され、底を平たく仕上げて自立できる造り方となっています。信仰や祭祀に関わる呪物とも考えられています。

縄文早期(紀元前9500-5000年)

縄文早期には定住集落が登場し、丸木舟がつくられ外洋航行など本格的な漁業の開始がみられます。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡で、およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されています。植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が生い茂っていたようです。。

BC8000年頃:メソポタミアJarmo:牧畜(牛・羊の飼育)と農耕(麦類栽培)
BC7000年頃:黄河文明はじまり
BC7000年頃:インダス文明(メヘルガル期)
BC6200年頃:中国(遼河文明 龍の起源 龍、玉、女神信仰)
BC6000年頃:シュメール(ハラフ文化
BC5300年頃:シュメール(ウバイド文化(エリドゥ期))

紀元前7500年頃  上野原遺跡(国内最古、最大の集落跡

鹿児島県霧島市の高台にある縄文時代から弥生時代を中心とした複合遺跡。約9,500年前(縄文時代早期前葉)の竪穴式住居跡などが発見された「国内最古、最大級の定住化した集落跡」

鹿児島県霧島市

紀元前7500年頃  打越岱遺跡 (早期の女神像

参照:縄文早期土偶(袖ヶ浦市打越岱遺跡)の3Dモデル作成と観察

袖ケ浦市上泉の打越岱(うちこしだい)遺跡から、土偶がほぼ完全な形で見つかっています。この時期の土偶の出土例は全国的に少なく、完全に近い形で発掘された例は珍しいようです。土偶は粘土で人の形を模した遺物明確に人の姿を表現したものは少なく、乳房や腰のくびれで女性を表現したと言われています。長さ6センチ、最大幅3センチ、厚さ1センチ、重さ15・5グラムの平らな形で、両腕の先部分が欠損

紀元前5500年頃   雷下遺跡(日本最古の丸木船)

縄文時代の航海の手段として、丸木舟が各地で発見されています。伊豆諸島の南端である八丈島に中期の住居跡や墓が残されていたり、鹿児島から沖縄にかけて点々と存在する小島に九州と同じ土器をもつ遺跡が存在することから、人々が高度な外洋航海の技術を身につけ、船で往来していたことが明らかになっています。日本での先史時代の丸木舟の発見例はおおよそ200例ほどで、その分布は関東地方に最も多く見つかっています。縄文前期の丸木舟として、福井県若狭町の鳥浜貝塚、京都府舞鶴市の浦入遺跡、島根県の島根大学構内遺跡、長崎県多良見(たらみ)町の伊木力遺跡がありますが、現在最古のものは縄文早期の千葉県市川市にある雷下遺跡のものになります。

発掘された丸木舟はムクノキをくりぬいたもので、長さ約7・2メートル、幅約0・5メートルの丸木舟としては大型だという。

紀元前9500-5000年  縄文早期土器

尖底深鉢形土器 縄文早期 千葉県香取市城ノ台貝塚出土 

紀元前5300年頃(4300年?)鬼界カルデラ噴火

鬼界カルデラは、薩摩半島から約50km南の大隅海峡にあるカルデラ。先史時代以前に複数回の超巨大噴火を起こし、約7300年前の大規模カルデラ噴火は過去1万年の内では世界最大規模のものでした。火砕流は九州南部にも到達し、九州南部の縄文人を絶滅、その影響は西日本全土に影響したと推測されています。

縄文時代の人口も東日本の方が多かった

縄文前期(紀元前5000-3500年)

縄文時代前期は、現代より2度高く冬も夏も 温かい時期でした。千葉県の貝塚からは 珊瑚(さんご)が見つかっており、東京近辺もサンゴ礁があるほどの温かさだったことがうかがえます。海も今より4~5メートルも高く、縄文時代前期の海辺の村は,今ではすべて海よりはなれた場所から発見されています. 暖かくなると動植物の種類が増え、食料も豊富になって人口も増えてきました。特に、この時期は「栽培技術」が始まったことです。 日本の各地の遺跡から様々な栽培植物の種や花粉が発見されています 。また、耳飾り・勾玉・管玉などの「装身具」が作られはじめます。

世界の出来事
BC5000年頃:古代エジプト文明はじまり
BC4800年頃:シュメール(ウバイド文化(ハッジ・ムハンマド期))灌漑農耕
BC 4000年頃:スーサ国完成(後エラムの首都)

紀元前4000年頃の世界農耕の進展状況
緑の濃いところほど発展

紀元前5000年頃  長者ヶ原遺跡 (装身具の使用 ヒスイの勾玉)

長者ヶ原遺跡 の勾玉

参考:勾玉の考古学的な考察

遅くとも紀元前5000年ごろには翡翠製勾玉が作られていたことが判明しており、北海道の美々4号遺跡・ヲフキ遺跡、青森県の三内丸山遺跡・亀ヶ岡遺跡、新潟県の糸魚川の長者ヶ原遺跡・寺地遺跡、長野県の離山遺跡などから出土しています。特に長者ケ原遺跡からはヒスイ製勾玉とともに翡翠の工房が発見されています。三内丸山遺跡や北海道南部で出土するヒスイが新潟県の糸魚川産であることから、縄文人が広い範囲で交易していたことを示しています。

紀元前4500年頃 朝寝鼻貝塚 (日本最古の陸稲栽培遺跡)

様々なプラントオパール
a:イネ b:ヨシ(葦)c:タケ亜科、d:ウシクサ族(ススキなど)

参照:イネの細胞化石から稲作の歴史を科学する

岡山県・朝寝鼻貝塚から6500年前のイネのプラント・オパール(植物の細胞組織にできるガラス質の結晶)が検出されていることからイネの畑作がこの時期から行われていたようです。また南溝手遺跡からは約3500年前の籾(もみ)の痕がついた土器がみつかっています。

イネの栽培種にはアフリカイネ 、アジアイネ があり、アジアイネにはインディカ (タイ米) 及びジャポニカ (日本米) の2種類があります。また、ジャポニカ米は熱帯ジャポニカ、温帯ジャポニカに分かれます。イネと稲作は 縄文時代前期の終わり頃はじめて日本列島に渡来し、このときは熱帯ジャポニカと言われる陸稲でした。 ジャポニカ米の起源は中国の「福建米(ふっけんまい)」だったと考えられおり、中国の「長江」の中〜下流域で栽培されていたものが、縄文時代に日本に持ち込まれたとされています。

この頃になると植物の栽培がはじまり新鮮な野菜やヒエ.アワ.などの穀類やサトイモが畑で作られるようになりました.

イネ(稲)

水稲は弥生時代に伝わってきますが、縄文時代にもイネは作られていました.そのころのイネは今のイネとちがい,赤米(あかまい)といわれる赤いお米や,黒米(くろまい)とよばれる黒いお米などいろいろな種類が混ざりあって作られていたようです.

ひえ(稗)

イネ科の作物で、アワと並んで古くから食べられてきました。稲や麦が不作のときに代用される救荒作物(きゅうこうさくもつ)としても利用される重要な穀物。

アワ(粟)

アワもヒエと同じように「から」をとって,おかゆやお団子にして食べていたと考えられています。

ソバ

現代の人がふつうに食べている「おそば」は「そば切り」といって江戸時代に広まったものです.それまではおかゆにしたり,粉にしてからねったり,お団子にして食べていました.

さといも

サトイモはゆでたり,やいたりして食べていました.くさりやすい性質なので発掘で見つかることはありませんが,縄文人達はかなりたくさん作っていたようです.

紀元前3900-2200年  三内丸山遺跡(進んだ縄文文化の証明を示す


栽培技術の存在
青森県の三内丸山遺跡の遺跡は、縄文時代前期中頃から中期末葉の大規模集落跡遺跡。集落は住居、墓、捨て場、大型掘立柱建物、掘立柱建物、貯蔵穴、墓・土坑墓、粘土採掘穴、盛り土、道路などが、計画的に配置されています。遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かりました。その他、多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土しています。

トチノミ
クルミ
ひょうたん
エゴマ
マメ

測量技術の存在
六本柱建物跡は、その柱の大きさで評価されていますが、それ以上に注目すべきは柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されている点で、これはその当時既に測量技術が存在していたことを示すものです。また、柱は2度ほど内側に傾けて立てられる現代の内転(うちころび)と同じ技法が利用されています。

六本柱建物跡

大型竪穴住居もつくられていた

広い交易と航海術
また、ここからは黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大珠などが出土しており、600キロ以上も離れた新潟産のヒスイや、長野や新潟産の黒曜石などが発掘されており、交易に当たっては、日本海を通じた海運ルートがすでに存在していたようです。
出土遺物は段ボールで数万箱に及んだと言われ、土器、石器が中心であるが、日本最大の板状土偶などの土製品や石製品も多く出土しています。また平底の円筒土器や玦(けつ)状耳飾りなどは、中国大陸の遼河文明(興隆窪文化)との類似性が指摘されています。

青森県青森市大字三内字丸山

板状土偶

ストーンサークル

玦(けつ)状耳飾り
興隆窪文化(紀元前6000-5000年あたり)と類似した遺物

ストーンサークル(環状列石)は、石を環状に配置した古代の遺跡です。イギリスのストーンヘッジのようなもので、世界に共通してみられ日本でも確認されています。大きさは直径30メートル以上のものと直径10メートル以下のものがあり、大きいものは祭祀の場として作られ、小さいものは竪穴住居の周囲に石を置いたものが多い傾向にあるようです。東北地方から北海道にかけてのストーンサークルは縄文時代中期後半から後期にかけて作られていきますが、現在までのところ最も古いと考えられているのは縄文時代前期の長野県諏訪郡原村にある阿久遺跡とされています。

出典:星降る中部高地の縄文世界 https://jomon.co/point/detail/95/

紀元前5000-3500年 縄文前期土器

縄文時代前期の土器は底が平らで,把手(とって)のついたものも出始めます。

円筒形土器 縄文前期 青森県八戸市是川一王寺貝塚出土

縄文中期(紀元前3500-2400年)

中期になると気温が低下し始める時期。集落の規模が大きくなり縄文期では人口が最も多く、植林農法もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化していきます。有名な火焔式土器や立体的な大型の土偶も出現し最も栄えた時期といわれています。
また、人々の生活は、いつも自然の脅威と向き合っていたため、人々はあらゆる自然物や自然現象の中に霊威の存在を認めていました。原始社会に特徴的なこのような信仰をアニミズムといいます。呪術の力で病気や災難を取り除こうとし、霊に祈りを捧げることで獲物の増加を願っていました。
このような習俗を示す呪術的遺物に、女性をかたどっだ土偶、男性を象徴的に表現した石棒があります。さらに、人生の通過儀礼、つまり成人式、結婚、近親者の死などの際に行われた抜歯の風習もこの頃はじまります。

世界の動き
BC3500年:シュメール都市文明ウル(ウルク期)青銅器製法開発
BC3200~539年頃:エラム誕生(イラン)
BC3200~3000年頃:古代ギリシャ(キクラデス文明 青銅器時代)
BC3150年頃:古代エジプト第一王朝
BC3000年 :三皇五帝の時代(中国)
BC2900年:メソポタミア/シュメール(初期王朝時代)
BC2686年:古代エジプト第3王朝(クフ、エジプト王、ギザのピラミッドを建設)
BC2600年頃:インダス文明(総合期)
BC2500年:アンデス文明

紀元前3500-2400年頃 縄文中期土器

この時期は縄文土器でも国宝に指定されている、芸術性に富んだ「 火焔型土器 」が登場します。胴体の表面は粘土のひもを貼り付けたような隆線(りゅうせん)や隆帯(りゅうたい)と渦巻き文で埋め尽くされています。「トサカとノコギリはあるが縄目はない」のが火焰型土器のスタイルです。

深鉢形土器(火焔型土器)
伝新潟県長岡市関原町馬高遺跡出土 

深鉢形土器(火焔型土器)
 新潟県十日町市笹山遺跡出土

深鉢形土器
東京都あきる野市草花出土

把手付甕形土器
 長野県伊那市宮ノ前出土

呪物風習の盛行

縄文中期の土偶(女神像) 

縄文のビーナス  (長野県茅野市   棚畑遺跡

縄文時代中期初頭になると土偶は立体的になり、頭部と四肢の表現が明瞭化すると共に、土偶自体が自立できるようになってきます。黄金比を満たす渦巻模様なども施されたこの造形変化は、縄文時代の全期を通じて最も大きなものでした。

1986年(昭和61年)、長野県茅野市にある「棚畑遺跡』から、高さ27㎝の縄文時代中期にあたる女神像が発見され「縄文のビーナス」と名付けられました。頭は頂部が平らに作られ、円形の渦巻き文が見られ、耳にはイヤリングをつけたかと思われる小さな穴があけられています。
腕は左右に広げられ、手などは省略されています。また、胸は小さくつまみ出されたようにつけられているだけですが、その下に続くお腹とお尻は大きく張り出しており、妊娠した女性の様子をよく表しています。

縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。

縄文の女神 山形県 西ノ前遺跡) 

地下1 mの範囲から左足、腰、頭、胴、右足など5つに割れた土偶が次々と出土。その後復元され、高さは45 cmと日本で発掘された土偶の中で最大級とされています。均整のとれた八頭身の美しい容貌で、縄文人が究極に再現された姿であることから「縄文の女神」と呼ばれています。

日本初の「子抱き土偶」  東京八王子 宮田遺跡 

八王子市川口町の宮田遺跡から発掘した「子抱き土偶」は、乳児を抱いた土偶としては初めての発見でした。高さ71㎜と小さく頭の部分が欠損しており、母が子を横座りして抱きかかえて、あたかも授乳している様子で造作されています。母親には沈線で様々な文様が描かれており、特に膝の部分の渦巻きが印象的。赤ちゃんの方には目や口の表現の他、縄文時代中期前半期の土偶に特徴的なカモメ状の文様が眉間に刺突文で描かれています。

参考

歴史系総合誌「歴博」第179号
南高生が発掘した「子抱き土偶」

石棒

石棒(せきぼう)は、縄文時代の磨製石器の一つ。男根形状をしており子孫繁栄の儀礼等 、呪術・祭祀に関連した特殊な道具として利用されたものと考えられています。住居内の炉の側で出土する事例が見られ、火熱による損壊変色があることから、石棒は火と関連する祭祀で用いられた祭祀具と考えられています。縄文時代中期から後期にかけて盛行し弥生時代前半期まで使用され、分布の中心は東日本で,西日本からの出土例は少ないようです。

石棒

日本最大の石棒・北沢大石棒
長さは223cm、直径は25cm

抜歯の風習

縄文時代の土坑墓や貝塚から出土するヒトの頭骨において、健康な歯を抜いている事例が多いことから、抜歯が広く通過儀礼として行われていたことが明らかにされています。縄文中期末仙台湾岸内から発生し、関東地方に南下、縄文後期には九州地方の一角にも伝播が確認されています。中国においても、古くは紀元前5000年前に抜歯が確認されており中国から伝来してきたものとも考えられています。

犬歯や下の前歯が抜歯してある人骨

犬歯や下の前歯が抜歯してある人骨

叉状研歯

焼畑農業の開始

焼畑農業とは、作物を栽培した後に農地を焼き払って地力を回復させる農法です。熱帯から温帯にかけて、伝統的に古くから行われています。森林あるいは原野に火をいれて草や木を焼き払って、そこに焼け残った草木や灰を肥料として作物を栽培したあと、再び地力が低下すると移動していきます。焼畑農業は日本国内においては縄文時代中期から行なわれていたとされています。一般的に焼畑は水田耕作の困難な山間部 、穀類であるアワやダイズ、アズキを中心に行われていたとされ、高知や熊本、愛媛、山形などで昭和の中頃まで行なわれていました。

縄文後期(紀元前2400-1200年)

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下がおきます。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていきます。
一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していきます。中部や関東では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化し、その他にも、青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡では、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっています。その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じていきます。

世界の出来事
BC2350年:メソポタミア(サルゴンがアッカド帝国樹立)
BC 2000年頃:メキシコ(マヤ文明)
BC1920 :黄河大洪水(中国)
BC 1900年頃:インダス文明滅亡
BC 1830年:メソポタミア(アムル系バビロン第一王朝樹立)
BC1900-BC1600:夏(か)王朝
BC1600-BC1046:殷(いん)王朝
BC1500:ヒッタイトが古バビロニア支配
BC1200:カタストロフで地中海大激変
       ヒッタイト滅亡で製鉄技術広まる

海水面の低下

奥東京湾地域における海面変化

紀元前2000年頃の世界文明

紀元前2400-1200年 縄文後期土器

これまで深鉢型が一般的であった土器もこの時期になると、壺型や注口のついたバラエティーに富んだ器種が登場します。文様は複雑になり、縄文を磨り消して磨き、光沢を出す技法が盛んに用いられます。生活の多様化に伴って、目的ごとに土器が作られたと考えられます。

人形装飾付壺形土器
青森県弘前市十腰内出土

注口土器 
青森県十和田市米田出土

紀元前2400-1200年 縄文後期土偶

紀元前2400年頃 長野県茅野市 中ッ原(なかっぱら)遺跡 仮面土偶

長野県茅野市湖東(こひがし)の中ッ原遺跡から出土した、全身がほぼ完存する大形土偶です。高さは34センチメートル、重さは2.7キログラムあります。顔に仮面をつけた姿を思わせる形であることから、一般に仮面土偶と呼ばれるタイプの土偶です。今から約4000年前の縄文時代後期前半に作られました。

「仮面の女神」の顔面は逆三角形の仮面がつけられた表現になっています。細い粘土紐でV字形に描かれているのは、眉毛を表現しているのでしょうか。その下には鼻の穴や口が小さな穴で表現されています。体には渦巻きや同心円、たすきを掛けたような文様が描かれています。足には文様はなく、よく磨かれています。この土偶は、土器と同じように粘土紐を積み上げて作っているため、中が空洞になっています。こうした土偶は中空土偶と呼ばれ、大形の土偶によく見られる形態です。

茅野市尖石縄文考古館

紀元前2000~1000年頃 郷原(ごうばら)遺跡 ハート形土偶

縄文時代後期の作と思われる土偶。高さは約30.5cm。頭がハート型をしているのが特徴。乳房、妊娠線・産道が表現されており女性像であるといわれています。また、体には線や渦巻模様が描かれています。

紀元前1500年頃 製塩のはじまり

この時期になると土器(製塩土器)に塩分濃度の高い海水を火で煮つめて塩をつくる製塩方法がはじまります。製塩土器を使った塩づくりは,東日本では縄文時代後期(今から約3,500年前)に始まり東北地方へ広がり、西日本では弥生時代中期(今から約2,000年前)に始まったとされています。製塩土器がみつかるのは海辺の遺跡ばかりだけではありません。中国山地の庄原市の和田原D地点遺跡や三次市の松ヶ迫遺跡群,東広島市の助平3号遺跡など海辺から遠く離れた遺跡からも出土しています。  しかし,こうした製塩土器による塩づくりは,瀬戸内を中心とした西日本では,古墳時代の終わりから奈良時代にかけて衰退していき,平安時代にはほとんどみられなくなりました。その理由としては,塩の需要の増加とともに,土器製塩法に代わって,海辺に広い砂地の塩浜をつくり,そこで大量の鹹水を採り,それを釜によって煮つめる方法が開発されたからです。

宮城県里浜貝塚出土製塩土器
文様などは施されない。内側は水もれを防ぐために丁寧に磨かれているのが特徴

製塩土器の時代別地域別一覧

国内最大、最古級の「水銀朱」徳島阿南市加茂宮ノ前遺跡

徳島県加茂宮ノ前遺跡から、赤色顔料である水銀朱の付着した石杵(いしきね)、石臼(いしうす)が300点以上、原料となった辰砂原石が多量に出土し、「縄文時代後期の水銀朱関連遺物の出土数としては国内最多。顔料の一大産地、生産拠点としては国内最大、最古級」であることが明らかになっています。

参考:忌部文化研究所通信

縄文晩期(紀元前1200-400年)

縄文時代晩期から弥生時代初期にかけて、人口が大幅に急減していた時期がありました。
この時期は、日本を含んだ世界的な寒冷化で気温が下がっており、食料供給の減少が人口減少につながったものと考えられています。またすでに中国との交易記録も残されています。中国から水稲技術が九州に伝来、弥生時代になる頃にはほぼ日本全土に水稲が広まって生産効率が高まっていきました。その結果、食糧難を切り抜けて人口減少に歯止めをかけていったものと考えられています。

世界の出来事
BC1200年:モーセエジプト脱走
BC1100年:古代ギリシャ滅亡
BC1060年頃:「周王朝」(中国)
BC 995年頃:古代イスラエル建国(ダビデ王)
BC 934- BC  609年:アッシリア帝国が全オリエント世界を支配
BC 800年:春秋戦国時代(中国)
BC 722年:北イスラエル崩壊(失われた10支族)
BC 625-539年:新バビロニア
BC 586年:南ユダ崩壊
BC 550-330年:アケメネス朝ペルシャ
※旧約聖書完成、ゾロアスター教、仏教、ヒンドゥー教、儒教ができる

人口の変化

縄文時代の終わりから弥生時代にかけて急激な人口減少があった DNA解析で判明

世界情勢

紀元前1200~400年頃 縄文晩期土器

晩期になると、文様はさらに流麗になります。東北地方に広く分布するこの時期の土器を亀ヶ岡式土器とも呼んでいますが、最近では土器の移り替わりが明らかになった大船渡市の大洞貝塚にちなみ大洞式と呼ぶことが多くなってきました。
黒光りする土器、複雑な文様を浮き彫りや透かし彫りにした土器など高い技術でつくられるものが増えます。また、皿や高坏など盛りつけ用の土器も発達します。


萪内遺跡(盛岡市)


曲田I遺跡


長倉I遺跡

参考:岩手の縄文土器

紀元前1200~400年 縄文晩期女神像

晩期の土偶(女神像)は、土偶の代表ともいえる遮光器土偶のようなユニークなものが東北地方を中心に多数出土します。 遮光器をつけ、服を着ている点は寒冷期の寒さに耐える生活が反映されているものだと考えられます。

 青森県 亀ヶ岡遺跡 遮光器土偶

亀ヶ岡石器時代遺跡(かめがおかせっきじだいいせき)は、青森県つがる市にある縄文時代晩期の集落遺跡。遺跡は、1622年に津軽藩2代目藩主の津軽信枚がこの地に亀ヶ岡城を築こうとした際、土偶や土器が出土したことから発見されました。遮光器は1886年(明治19年)に発見され、先進性(黒光りするまで磨き上げたものや、弁柄(べんがら)を混ぜた漆で赤く塗られたものまである)も認められるもので、縄文土器の最高傑作といわれています。目にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名称がつけられています。遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い傾向にあります。

 埼玉県 真福寺貝塚 ミミズク土偶

縄文時代後期から晩期の集落跡。真福寺貝塚は大正時代に発掘が始まり、一九二六年ごろ、「みみずく土偶」が発見され、その後重要文化財(重文)に指定されました。

紀元前 1000年頃 中国(周)との交流 

「論衡」という中国の歴史書(編者:王充)に
成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯(成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず)
(恢国篇第五八) と記録されています。
周の成王の在位期間は紀元前1043年 から 紀元前 1020年であることから、この時期以前には中国と日本で交流があったことが分かります。

紀元前900年頃 水稲伝来

かつて、弥生時代のスタートは、「稲作が始まった時期」とされ、紀元前4世紀ごろと考えられてきました。しかし現在は縄文時代前期からすでに陸稲が行われ、縄文時代晩期の紀元前10世紀には中国大陸長江流域で生まれたであろう水稲(温帯ジャポニカ)と水田技術が伝わり、九州の北部で水稲が始まっていることがわかってきています。 そのため弥生時代のスタートは紀元前10世紀ごろだとする説も登場してきています。
縄文時代晩期に水田稲作 を行っていたことを示す遺跡としては、福岡県の板付遺跡、 佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡 が有名です。遺跡からは水田跡や竪穴式住居などの他に、 炭化米や土器に付着したモミの圧痕、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見され、 周囲に堀を張り巡らせた日本最古の「環濠集落」になります。この頃は米を煮て調理していて、今で言う「お粥」が食べられていたようです。
大陸から伝来してきた稲作は、九州北部に伝わり、紀元前8世紀頃に高知平野、紀元前7世紀に山陰、瀬戸内地域、 紀元前6世紀には濃尾平野、紀元前3世紀に東北地方に伝わります。こうして最大の問題だった深刻な食糧不足が解消されていくことになります。

板付遺跡

水田跡

紀元前400年頃 織物機の登場

機織りが登場するまで、木や麻などの植物の繊維から糸をとって、手編みで布を織っていました。機織りの登場は縄文晩期頃で、この頃はまだ機織り台がないものでした。たて糸を一斉に上下に分け横糸を通る道をつくる「綜絖」があることで、作業効率を高めることができました。

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真理の島 四国(愛媛、香川、徳島、高知)

公式サイト

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