E:中国の文化(先史時代~晋王朝 道教、仏教の広がり)

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参考:長江・黄河文明

最終氷河期が終焉し、地球の温暖化によって人類の農耕がいち早く起こったのが東地中海の「レバント」と「長江領域」でした。レバントでは大麦、小麦栽培が、中国では稲作、水稲が始まります。
かつて教科書には「世界四大文明」のうちのひとつとして挙げられていましたが、現在は長江文明や遼河文明などさまざまな文明が中国各地で発見され、近年の教科書では「黄河・長江流域の文明」のような表現となっています。現在までの調査によれば、中国最古の文明は長江中流域で起こり、稲作が始められています。次いで、黄河下流域では粟作が始められ、南北の両大河沿いに諸文明が勃興していき、やがて黄河文明が長江文明を取り込んでいきます。さらに、もう一つ遼河流域を中心とする地域で起こった遼河文明です。

長江文明(紀元前14000~1000年)

長江文明は、長江領域で起こった複数の文化群の総称で、黄河文明と並び中国を代表する古代文明です。かつて「中国文明は黄河文明」といった定説も河姆渡遺跡の発見により見直され黄河文明とは系統の異なるものと考えられるようになりました。
起源は 紀元前14000年頃の玉蟾岩遺跡が現在最古とされ、紀元前10000年以上前から稲作が始まっていたことがわかっています。 長江文明の発見から稲(ジャポニカ米)の原産が長江中流域とほぼ確定され、日本の稲作もここが源流と見られています。

朝鮮半島からきた弥生人が日本に水稲をもたらしたものと考えられていましたが、黄河下流と長江下流に挟まれた地域の漢代の遺跡から、渡来系弥生人によく似た人骨があいついで見つかっており、中国から直接伝わってきたという説も提唱されています。

参考:http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html

下流域の良渚文化の時代を最盛期として、中流域では黄河流域の二里頭文化が移植されていきます。これも、黄河文明との勢力争いで征服された結果であるものと考えられています。黄帝神農蚩尤の対立といった伝説は、黄河文明と長江文明の勢力争いに元があるとも考えられています。河姆渡遺跡からは玉で作られた玉器や漆器などが発見されており、また呉城文化(紀元前1400年- 紀元前1000年)からは磁器が発見されています。

太陽に向かう2羽の鳥

陶器の豚。

手織りの敷物

赤い漆の塗られたお椀。

河姆渡文化

玉琮

玉琮に彫られた神の顔面

良渚文化

黄河文明

この黄河文明の中でも代表とされるのが仰韶文化(ぎょうしょう)・竜山文化(りゅうざん)の二つの文化です。仰韶文化は紀元前5000年ごろに始まったもので黄河の上流域、中国の陝西省・山西省あたりで栄え、その特徴として綺麗に彩色された土器が使われていました。このような特徴な文化は彩陶文化と呼ばれています。もう一つの竜山文化は仰韶文化が終わった後の紀元前2500年ごろに始まったもので、こちらの特徴は黒い土器です。ですので、このようなものを黒陶文化と呼んでいます。この頃には高温で焼く事が出来るようになったために薄手で硬い土器が作られていました。この文化の終わりごろになると銅器も作られるようになりました。

彩陶・黒陶・灰陶

人面魚の描かれた陶器

フクロウの面をかたどった像

遼河文明

遼河文明(りょうがぶんめい)は、中国東北部の遼河流域で起こった中国の古代文明の一つ。
興隆窪文化紅山文化の遺跡が著名で、興隆窪文化からは 龍を形どったヒスイの玉成品、 紅山文化 からは 風水の原型と見られるものが発見されています。黄河文明や長江文明とは異なる文明であり、現代でも大きく注目され盛んに研究されています。

興隆窪文化

興隆窪文化は、ヒスイなどの玉製品(玦 : けつ)の出土と龍の出現する文化としては中国最古のものです。集落が計画的に築かれ堀で囲まれた環濠集落でもあります。原材料のヒスイはシルクロードを西方へモンゴル高原を抜け、天山山脈南麓のタリム盆地より入手していたようです。

女神像

紅山文化

ヒスイなどの石を彫って家畜や動物などの形にした装飾品が多く出土しており、ブタ、トラ、鳥のほか、龍を刻んだものが発見されています。「猪竜(ズーロン)」または「玉猪竜(ユーズーロン)」と呼ばれる円形の龍を彫った玉が多く、玉は古代から特殊な「精気」を持つ天地万物の根源と信じられていました。牛河梁遺跡からは、モンゴロイドにはない「碧」眼を持つ女神像が出土しており、タリムなど西洋との交流があったことを推測させます。

猪竜と象

牛河梁遺跡の碧眼女神像

参考:紅山文化女神像

女神像

年代(BC) 長江文明 黄河文明 遼河文明
14000年 玉蟾岩遺跡
稲モミが見つかっている
   
12000年 仙人洞・吊桶環遺跡
栽培した稲が見つかる
   
7000年 彭頭山文化
最古の水稲
   
6000-5000年     興隆窪文化
5000-4000年 河姆渡文化 仰韶文化 新楽文化
馬家浜文化   趙宝溝文化
紅山文化
4000-3000年

大渓文化    
崧沢文化    
良渚文化    
3000- 2000年

屈家嶺文化 龍山文化  
石家河文化    
     
  二里頭文化 夏家店下層文化
1500-500年

呉城文化    
    夏家店上層文化

三皇五帝の時代(紀元前3000~2000年あたり)

伏羲と女媧

三皇五帝(さんこうごてい)は、 中国最古の王朝である夏(か)王朝の前に、三皇とそれに続く五帝の合計8人の聖王による治世が存在していたと伝えられる伝説上の帝王。 だれを三皇五帝とするかについてはさまざまな説があり一定していません。 三皇は神的存在で易をつくった伏羲(ふくぎ)、人類を生み出した女媧(じょか)、民に農業を教えた神農(しんのう) がよくとり上げられ、五帝は理想的な君主存在として「史記」では黄帝顓頊(せんぎょく)、(こく)、(ぎょう)、(しゅん) を取り上げています。

三皇五帝 - Wikipedia

黄河大洪水(紀元前1920年)

黄河の大洪水(こうがのだいこうずい)とは、夏王朝が建国される切っ掛けとなったとされる伝説上の洪水のこと。大洪水が起きたときに伏羲と女媧二人だけが生き延び、それが人類の始祖となったという伝説が残されています。黄河流域は湿地が広がり、住めるようになったのは禹(ウ)という英雄が現れてからで、この功績によって禹は政治的権力を得て夏王朝を起こしたと伝えられています。これまで伝説上の出来事と考えられてきましたが、2016年8月科学雑誌『サイエンス』に掲載された記事に、この大洪水は紀元前1920年に実際に起こったと伝えています。

中国の奥地で地滑りが起こり、岩や土砂が黄河の峡谷に流れ込んだ。崩れ落ちた土砂は高さ200メートルにもなる巨大な自然のダムとなり、数カ月にわたって川をせき止めた。やがてダムが決壊すると水が一気に流れ下り、周辺の地域に押し寄せて大洪水を引き起こした。

紀元前1920年ごろは、青銅器時代と二里頭文化の始まりにあたり、この時期が夏王朝にあたるとも推定されています。大洪水のあった時期と夏王朝のはじまりの時期に整合性がとれていることは伝説の夏王朝が実在した手がかりのひとつになっています。

参考:黄河に古代の大洪水跡、伝説の王朝が実在?

かつて、地滑りによる自然のダムがあった積石峡。黄色がかった地層がせき止めされた跡。

夏(紀元前1900-1600年)

二里頭遺跡復元図

夏(か)は『史記』『竹書紀年』などの史書に、初代の禹から末代の桀まで14世17代471年間続き、殷の湯王に滅ぼされたと記録されている中国最古の王朝。長らく伝説の王朝として扱われていましたが、近年実在の可能性が出てきています。夏王朝の始祖となる(ウ)は、五帝の一人顓頊の孫。禹は舜帝に推挙される形で、黄河大洪水の治水事業に当たって功績をなして大いに認められ夏王朝を創始したと伝えられています。 初代の禹から末代の桀まで14世17代471年間続き、殷に滅ぼされたと記録されています。
夏の支配領域は中国の黄河流域、いわゆる中原を支配したのみにすぎないと言われています。
陽城(現在の 河南省 登封市)に都城( 後の洛陽 )を定め、この地域にある二里頭村で発見された二里頭遺跡からは殷時代より古い宮殿跡、人口2万人以上と推定される当時としては世界有数の大規模集落跡、遼河文明から伝わったとされるトルコ石で表現された龍、龍の文様の入った玉璋(ぎょくしょう)が発掘されていることなどから二里頭文化が夏王朝だと支持する学者も多いようです。

(う)

二里頭遺跡宮殿

夏の支配領域
(中原 洛陽付近)

トルコ石の龍

龍の玉璋
各地で龍の玉璋が発見されており、その影響力は中国全土にわたっていたとも考えられています。

参考:世界の歴史まっぷ

殷 (紀元前1600-1046年)

夏の桀王は暴政を敷き、その治世はひどく乱れていくことになります。これに対し、殷の湯王は天命を受けて悪政を正すとして蜂起して夏軍を撃破、各都市を破壊し夏は滅亡します。湯王は後に王となり殷王朝を創設します。
殷の社会構造は邑(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの基本集落が、豪族や王族に従属したもので、地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていきます。
殷王は神界と人界を往来できる最高位のシャーマンとされ、占いによって政治を行い、後期になると生贄を捧げる鬼神崇拝に発展します。この恐怖政治による慣習が多くの部族の反感を買うことになって反乱を招き、殷を滅亡へと導く原因になったという説もあります。

武王・湯王

殷の支配領域

殷の首都 殷墟跡

殷墟のあった江南省。古の豫州があったことから、略称は

后母戊鼎(こうぼぼてい)
現存する青銅器としては世界最大

食人虎卣 殷後期 

三星堆遺跡

四川省徳陽市広漢市で紀元前2000年頃の三星堆遺跡が発掘され、全身立像、人頭像、人面像を含む、等身大の青銅器が多数発見されました。2つの祭祀遺跡があり、 出土した青銅人像は、中国でも前例のない形だったため、中国の冶金と彫塑芸術の歴史に大きな意義を持ち、一連の謎を残すことになります。 青銅人像と人面像は、高い確率でいけにえの代用を象徴していると考えられ、中原の殷文化の影響を受けていたことがわかります。

青銅製の人頭像

青銅縦目仮面

竜一匹、鳥十羽が描かれた青銅の木。古代蜀国の日、鳥、天、竜、木などに対する自然崇拝やトーテム崇拝、「三星堆文化」の中の暦法なども表しています。

全身立像

玉で作られたネックレス

青銅で作られた獣面像

青銅製の太陽輪

参考:写真集三星堆博物館の神秘的な収蔵品

甲骨文字

古代中国でおこなわれた占卜を、当時の文字でカメの甲羅やウシの肩甲骨の上に刻みつけて記録した文字で、漢字の原初形態であり中国最古の文字。

周(紀元前1046-256年)

殷の22代武丁王以降の王は暗愚な君主が続き、王朝最後の紂王も即位後から暴政を行います。
紀元前1046年、殷の従属国であった周の武王は、 周公旦太公望召公奭ら名臣の補佐のもと、紂王が東夷征伐に乗り出した隙をついて反乱し殷軍を撃破します。(牧野の戦い)これにより殷王朝は滅亡し、 周王朝が興ります。都は渭水流域の鎬京(こうけい。あるいは宗周という)に置き、中原を支配するようになってからは、中原統治の便を考慮して、河南省の洛邑(洛陽)を副都とします。紀元前771年の洛邑遷都までを西周、遷都から秦に滅ぼされるまでを東周春秋戦国時代)と時代区分されています。

西周時代(紀元前1046-771年)

武王は建国後すぐに死去します。その後の成王と、彼の息子の康王の治世は平和で繁栄していたとされますが(成康の治)そのあとは次第に勢力が衰えていきます。
先代の殷王朝の領土は封建領土で分かれていて、王家の一族や将軍は洛陽、晋、殷、魯、斉、燕を含む東部に領土を与えられていました。周王朝の支配が大きな領域に広がったために、権威を維持するために定められたものでしたが、これらの領土の多くは周王朝が衰退していくにつれて強大になっていき王朝から離脱し独立していきます。12代幽王の時代、申から迎えていた皇后を廃し褒姒を皇后としたため申侯の怒りを買い、幽王とその子は殺害され次代として携王が即位します。これに反対する諸侯は、東の洛邑(洛陽)へ移り、王子宜臼を擁して平王として対立します。周は東西に分かれて争った結果、東の平王が勝利し、ここから周は東周と呼ばれ春秋時代に移行していきます。

武王

軍師太公望

殷代から春秋時代にかけての華北は、「邑(ゆう)」と呼ばれる都市国家が多数散在する時代でした。殷代、西周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造で、戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦していました。領土での支配域を決めることはできない、 邑で結んだ点と点の ネットワーク状の支配構造でした。春秋末から戦国にかけて、華北の政治形態は、都市国家群から領域国家群へと発展していきます。

東周時代・春秋戦国時代(紀元前771ー221年)

周の首都が洛邑に遷都してからも、周の王権はさらに衰えていき、有力諸侯が自立して王を自称していきます。秦の恵文王、韓の宣恵王、その後も燕の易王、宋の康王、中山の王サクが自称し周は1国の小国までに成り下がります。 前5世紀末になると周王は全く有名無実化し、各国でも下克上が進んで中国は有力な七国(戦国の七雄)に分割されることとなり覇権をかけて争います。 その前半を春秋時代と言い、その後半の前221年の秦の始皇帝による中国統一までを戦国時代といいます。戦国時代になると七雄の君主がそれぞれ「王」を称するようになり、周王の権威は失われることになります。

紀元前771年頃の周の領土

戦国七雄の領土
秦(しん)・楚(そ)・斉(せい)・燕(えん)・趙(ちょう)・魏(ぎ)・韓(かん)の7国が戦国七雄

思想家

紀元前1000~1年までは世界で多くの聖人、思想家が現れます。中国でも同様諸子百家のような思想家が春秋戦国時代に輩出します。

諸子百家(しょしひゃっか)

中国の春秋戦国時代に現れた学者・学派の総称。「諸子」は孔子老子荘子墨子孟子荀子などの人物を指します。「百家」は儒家道家墨家名家法家などの学派を指します。諸子百家の道家(どうか)の大家である老子荘子は後に 老荘思想(ろうそうしそう) として道家の中心思想としてとりわけ魏晋南北朝時代に取りあげられていきます。

儒家・・・孔子(紀元前551- 479年)

中国古代の思想家。儒教の祖。孔子の「子」は尊称。魯(ろ)の国(山東省)の人。孔子は、為政者は有徳者でなければならず、法律や政令による厳しい規制よりも、道徳や礼儀による教化こそが理想的な支配の方式だと考える。「これを道(みち)びくに政(まつりごと)を以(もっ)てし、これを斉(ととの)うるに刑を以てすれば、民免(まぬか)れて恥なし。これを道びくに徳を以てし、これを斉うるに礼を以てすれば、恥あり且(か)つ格(ただ)し」(為政篇)。

孫子・・・孫武(紀元前535年頃 – 没年不詳)

軍事思想家。兵法書『孫子』の作者とされており、兵家の代表的人物。斉国出身。「戦わずして勝つ」という戦略思想、戦闘の防勢主義と短期決戦主義、またスパイの重要視など、軍事研究において戦略や戦術、情報戦など幅広い領域で業績を顕し、ベイジル・リデル=ハート、毛沢東など、現代の軍事研究者、軍事指導者にも重要な思想的影響を与えた。その軍事思想は航空技術や核兵器など、古代に想定できなかった軍事技術の発展した数千年後の現代においても有効性を失わず、今なお研究対象とされている。

ウィキペディア

陰陽五行思想・・・鄒 衍(紀元前305- 240年頃)

中国,戦国時代に斉の騶衍(すうえん)は,王朝の交替,歴史の変遷を五徳の循環によって説明する,いわゆる五徳終始説をとなえた。それによると,循環は五行相勝(ごぎようそうしよう)の原理,すなわち〈木は土に勝ち,金は木に勝ち,火は金に勝ち,水は火に勝ち,土は水に勝つ〉とされる。それゆえ土徳に当たる黄帝の次には木徳に当たる夏王朝が興り,夏王朝の次には金徳に当たる殷王朝が興り,殷王朝の次には火徳に当たる周王朝が興り,周に代わって天下を統一するのは水徳の王朝(秦)である,と説かれた。

鄒衍

青銅器文化

周の青銅器文化は全盛時代と言われるほど大量につくられ基本的には殷の技術を受け継いでいます。芸術性においては殷の時代のものより簡素化しており、殷代に比べればかなり低い評価となっています。ただし、驚くべきことは、この時代すでに青銅器の成分規格が作られていたことです。この成分規格は錫(スズSn)の含有量を規定したもので、「周礼考工記」という本の「金の六斉」で、錫の量によってその用途が定められています。「斉」というのは 《等しくする》 というような意味で、現在でいえば「標準規格」ということになります。青銅は錫の含有量を増やしていくと急速に硬くなるので、この斉(規格)は特性に合った用途であることが解ります。

錫14%・・・鐘、要などの鳴り物
斧斤の斉 錫17%・・・斧
戈戟の斉 錫20%・・・鉾(ほこ)
大刃の斉 錫25%・・・刃物
削殺矢の斉 錫30%・・・矢じり
鑑燧の斉 錫50%・・・鏡、火打ち金

鉄器製造(紀元前600年

中国においては、殷代の遺跡において既に鉄器が発見されているものの、これはシュメールなどと同じくそれほど利用されていたわけではなく、主に使用されていたのはあくまでも青銅器でした。本格的に製鉄が開始されたのは春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろであり、戦国時代には広く普及します。鉄器の普及は農具などの日用品から広がり、武器は 青銅剣 のような戦国時代まで耐久性のある青銅器が使われ続けていました。

中国の製鉄技術史

秦(紀元前221-206年)

戦国七雄の時代も、秦の始皇帝の登場によって終焉を迎え中国は統一に向かいます。
始皇帝の姓は嬴(えい)。名は政。 紀元前247年 13歳で秦王となり、家臣の補佐を受けながら韓・趙・魏・楚・燕・斉の六国を滅ぼし天下を統合し始皇帝と自称するようになります。 周の封建制度を廃して郡県制をしき、中央集権化の政治体制を整え、 焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)による思想統制や、車両の幅、度量衡、貨幣の統一、文字の簡略化、万里長城の増築、阿房宮など荘厳な宮殿の築造などを行ないいます。 一方で全国を遊行し自賛の刻石を建て、不老長寿の薬を求めたりしましたが、性急苛酷な専制政治のため、その死後 まもなく反乱が起こり,秦はわずか15年で滅びることになります。

始皇帝

秦の支配状況

秦の建国

甘粛省

秦の建国の始まりは紀元前900年頃の非子。非子は、秦亭(現在の甘粛省天水市張家川回族自治県)という地域に暮らす馬飼いでした。秦亭は草原と水、丘陵の揃った中国随一名馬の産地。この地には太古に犬戎・西戎などと呼ばれる遊牧民族が支配する地でした。西周の孝王が、 非子が名馬の馬飼いであるとの評判を聞き付け、国王の軍馬の飼育を頼みます。そして、優れた軍馬の増殖・訓練に対して功績を挙げたことから「嬴」の姓と大夫の爵位を与えられます。そして、非子は、現在の秦邑の領地を支配し建国したのが秦であったという。以来、周朝の属国として、その後秦人と西戎は長くて残酷な戦いをしていくことになります。

始皇帝陵

始皇帝は、その強大な力を背景に大規模な陵墓を建設した。これが秦始皇帝陵で、紀元前246年(始皇帝14歳)から紀元前208年にかけて造られたと推定されています。史記によると、始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の川や海が作られた」と伝えていますが、1981年に行われた調査によるとこの周囲から水銀の蒸発が確認されています。

陵墓はピラミッド型の土塁で高さ76m

兵馬俑は陵墓の1.5km東に位置し、その規模は2ha程。3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体近くあり、みな戦闘態勢で東を向いている。

兵馬俑

前漢(紀元前206-紀元後8年)

秦・漢帝国の支配領域

図参照:世界史の窓

秦に対する造反軍の中核となったのが楚の将軍項羽で、秦を滅ぼした後は一時“西楚の覇王”と称します。その後、天下を漢王劉邦と争い紀元前206-202年までの4年間政権を争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に項羽が優勢であったものの、次第に劣勢となって敗死。劉邦が漢王朝を創建し 首都を長安に定めます。 東の洛陽を都とした後漢(東漢)に対して、西漢とも呼ばれます。 秦の制度を継承しつつ独自の支配体制を確立、 中央集権政治の骨格を形成すると同時に、漢字・漢文によって代表される漢民族の文化の母胎となって 安定した支配を長期にわたり維持する体制をつくりあげます。 前2世紀末、第7代武帝のときに最盛期となり、匈奴を制圧してその領土を西域に拡大し、現代の中国と同じ西端に達した。また朝鮮半島やベトナムへもその領土を広げました。

後漢(25-220年)

しかし、前漢も時が経つと次第に宦官と外戚が実権をふるうようになり、8年に外戚王莽に帝位を奪われ滅亡します。25年、 漢王朝の皇族劉秀 (光武帝)が滅ぼされた漢を再興し、都を洛陽に遷都、以後後漢の時代が続くことになります。 同時期,西方にはローマが存在しており,「パックス−ロマーナ」に象徴されるように東西両大国の成立によって東西交易が活性化しました。前漢中期から儒教の勢力が強くなり、国教の地位を確保していましたが、光武帝は王莽のような簒奪者を再び出さないために更に儒教の力を強めようとします。郷挙里選の科目の中でも孝廉(こうれん、親孝行で廉直な人物のこと)を特に重視します。また前漢に倣って洛陽に太学(現在で言えば大学)を設立し、五経博士を置いて学生達に儒教を教授させます。 しかし,2世紀から衰退しはじめ,幼少の皇帝があいつぐなか,宦官・外戚が台頭し,政治は乱れていくことになります。

光武帝

後漢の支配領域

日本との交流

後漢書東夷伝の記述で知られるように、この時代(日本では弥生時代)には日本列島の人々が中国の王朝と直接交渉していることが知られ、福岡県志賀島で発見された「漢委奴国王」金印がこれを裏付けています。三宅米吉はこれを漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王と読んでいる。また、委奴を「いと・ゐど」(伊都国)と読み、漢の委奴(いと・ゐど)の国王と読む説もある。一方、中国の史書では、「倭奴国」は「倭国」の旧称と記されている。

漢委奴国王

中国の史書に倭国が現れたのは、『後漢書』の安帝紀の永初元年(107年)の記事が初めて。

「冬十月,倭國遣使奉獻。辛酉,新城山泉水大出」

『論衡』倭人について

周の時代について書かれているものの、『論衡』はかなり後の前漢の時代の1世紀に書かれたもの。周の時代から倭と交流があった。成王(せいおう)は、周朝の第2代の王(紀元前1042-1021年)で日本では縄文晩期時代あたり。

時天下太平 倭人來獻鬯草」(異虚篇第一八)
の時、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず

成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯」(恢国篇第五八)
成王の時、越裳は雉を献じ、倭人は暢草を貢ず

時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶」(儒増篇第二六)
の時、天下は太平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す。白雉を食し鬯草を服用するも、凶を除くあたわず。

『漢書』地理志

「楽浪」とは、前漢の武帝が紀元前108年に設置した「朝鮮4郡」の一つ「楽浪郡」のことで、今の北朝鮮・平壌の付近にありました。漢時代の日本は 百余国に分かれていたということでしょう。

「然東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設浮於海、欲居九夷、有以也夫。樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」
然して東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設(も)し海に浮かばば、九夷に居らんと欲す。以(ゆゑ)有るかな。楽浪海中に倭人あり、 分ちて百余国と為し、 歳時をもつて来たりて献見すと云ふ。

『後漢書』東夷伝

「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
 建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす

「安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」

 安帝、永初元年(107年)倭国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う

「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」
桓帝・霊帝の治世の間(146年 – 189年)、倭国は大いに乱れ(5-6年間)、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。

中国への仏教伝来

中国への仏教伝来は一番早い説が紀元前2年、最も遅い説が67年と考えられています。この時期はブッダの音訳である浮屠(ふと)と呼ばれていました。当初はあくまで上流階級に知られていたもの程度でしたが、社会不安が高まってくるにつれ、民衆の中にも信者が増えて教団が作られるまでに至ったようです。仏教の無の概念を理解するに当たり、中国人の窓口となったのが老荘思想の無為であったため、その結果として仏教は老荘の影響を受けて変質し、また老荘の方も仏教に刺激を受けて道教教団の成立が行われることになっていきます。後漢末期の武将笮融が、揚州に大寺を建立した事で知られています。

道教

道教は後漢末頃に生まれ、魏晋南北朝時代を経て成熟し定型化し、隋唐から宋代にかけて隆盛の頂点に至ります。一般には、老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術や、符籙(おふだを用いた呪術)・斎醮(亡魂の救済と災厄の除去)、仏教の影響を受けて作られた経典・儀礼など、時代の経過とともに様々な要素が積み重なった宗教とされています。第11代桓帝は道教に傾倒したことで有名で、老子の祭祀を何度も行っています。仏教と同じく社会不安と共に信者が増えていき、太平道と五斗米道の2つの教団が作られました。

三国時代(220-280年)

後漢朝は創立当初から地方豪族の力が強く、大きな勢力を誇っていましたが、159年の桓帝以降は、宦官が中央を牛耳るようになり、不満をもつ豪族たちがでます。宦官たちは不満をもつ豪族に党錮の禁(公職停止を意味する)と呼ばれる弾圧を行い、一方では悪政が続く中で民衆の生活は窮迫し、これらの民衆は張角が教祖として率いる太平道(道教の源流の一つとされる宗教団体)に救いを求めるようになります。多くの民衆を吸収した太平道は、184年についに反乱を起こします。(黄巾の乱)政府は鎮圧に成功するも悪政は変わらず、民衆、豪族たちの不満は解消されないままであり、各地に黄巾の残党が散らばったことで反乱は続きます。189年に皇帝の霊帝が崩御後、中央政府内で権力争いが生じ、何進の呼びかけに応えて洛陽へやってきていた西涼の董卓が実権を掌握していきます。

董卓 は献帝を皇位に就け、暴政を行ったため各地で反董卓の連合軍が挙兵。董卓は洛陽に火をかけて焦土とした上で、西の長安へと引き揚げ対抗します。反董卓連合軍は連合内で関係が悪化して足並みが乱れ、董卓も家臣に殺害されるなど混乱が中国全土へ広がっていき群雄割拠状態になっていきます。

そんななか、曹操は兗州となり、黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を自分の配下に納めて、急激に勢力を拡大。献帝を頂き、官渡の戦いで勝利を収めることで中原、中国北部を勢力下に収め魏を建国し南下政策をとっていきます。魏の南下政策に対抗したのが呉の孫権、蜀の劉備で、魏・呉・蜀の三国が三つ巴の長い対立が続く三国時代が続きます。三国は初期にあっては魏・呉対蜀が、225年以後は魏対呉・蜀といった対立を軸にして動いていき、234年の諸葛亮の死後はさしたる戦いもなくなります。263年、魏は蜀を滅ぼしたことで三国の時代は終焉、265年、魏も晋の武帝に国を奪われ、呉も280年の滅亡します。

三国時代初期勢力図

三国時代勢力図

魏王・曹操
治世の能臣、乱世の奸雄

呉王・孫権
兵法家孫武の末裔

蜀王・劉備
前漢の血をひく

魏志倭人伝

3世紀初頭、遼東の公孫氏政権は楽浪郡を支配し、屯有県以南においたのが帯方郡。その後、 楽浪郡 とともに魏に引き継がれます。 かつて百あまりの国であったが、この頃倭の使者をおくってくるのは30国ほど

「倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國」
倭人は帯方郡の東南の大海の中におり、山の多い島のうえに国や邑(むら)をつくっている。もとは百あまりの国があり、その中には漢の時代に朝見に来たものもあった。いまは使者や通訳が往来するのは三十国

親魏倭王

238年に公孫淵が司馬懿に討たれて公孫氏政権が崩壊し、魏が楽浪郡と帯方郡を占拠すると、邪馬台国の女王・卑弥呼は帯方郡への使者を送って魏との交流を再開。魏の2代皇帝明帝(曹叡)は制書を発して卑弥呼に下賜品を与えるとともに、卑弥呼を「親魏倭王」に任じてその証である金印を与えます。中国王朝交代時には、諸外国に対して新王朝への忠誠の証として前王朝の印綬の返上を求め、その代わりに新王朝からの印綬を与えるのが慣例となっていました。卑弥呼の後継者とされる台与(あるいは壱与)が、西晋王朝成立の翌年である266年に朝貢を行っており、これは王朝交代に伴う朝貢と考えられ、前王朝から授けられた「親魏倭王」の金印はこの朝貢時に回収された可能性が高いとされています。 壱与にも「親晋倭王」等の新しい称号と印綬が晋より授与されたと推測 。 なお未だに金印は見つかっていません。

仏教の広まり

紀元3世紀頃より、中国ではサンスクリット仏典の漢訳が開始され華北のみならず江南地方でも支謙や康僧会によって訳経が始まり仏教が伝えられていき中国人の出家者が見られるようになります。

晋(265年 – 420年)

通常は匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けています。東晋時代になると華北は非漢民族が群雄割拠し五胡十六国時代と称されます。

西晋(265-316年)

曹操に仕え、曹操嫡子 曹丕 の世話役であった司馬懿は、220年曹操が死去すると魏初代皇帝となった曹丕(文帝)の信任を得ます。文帝が崩御すると明帝(曹叡 )の後事を託されますが、明帝も直後に崩御し、 幼い曹芳を魏宗室の曹爽と共に託されます。しかし、曹爽との間に確執が生じ、司馬懿は 実権を奪われることになります。249年、司馬懿がクーデターを起こし、曹爽らを誅殺、完全に掌握するも、2年後の251年死去します。その後魏の実権を握ったのが長男の司馬師。しかし 司馬師も数年後病死し、司馬懿の次男司馬昭に引き継がれます。 司馬昭 は263年蜀を滅ぼし、嫡子司馬炎が晋王武帝となり晋王朝が誕生します。 280年に武帝は残る呉を滅ぼして三国時代を終焉させ、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに再統一します。 武帝の跡を継いだ司馬衷は暗愚で、政治を放り出し皇太后楊芷の父の楊駿が権力を奪い取り、これが後に晋の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱八王の乱の始まりとなり大混乱に陥ります。304年には匈奴の大首長劉淵により漢(後の前趙)が河北に建てられ、さらに蜀でも成漢が建てられるなど異民族の反乱、いわゆる永嘉の乱が激しさを増していきます。八王の乱は306年に終結するも、晋の国力衰退は明らかで匈奴の侵入を受けて317年に滅びます。

東晋(317-420年)五胡十六国(304-439)

晋が匈奴の侵入を受けて滅んだ後、司馬氏の一族司馬睿が江南で317年に晋を再建しこれを東晋といいます。華北では北方民族の五胡十六国に分割され、隋の建国まで中国は分裂した状態が続きます。
東晋では396年に孝武帝が変死(後宮の女性と痴話喧嘩の末に絞め殺された)し、安帝が立ったが、統治能力に乏しく、403年には、北府軍に対抗していた西府軍の桓玄が安帝から禅譲される形で帝位につき国号を楚とします。しかし、わずか三ヶ月後404年劉裕がクーデターをおこし、桓玄を追放、安帝を帝位に就けて復活させ、劉裕は20年近く皇帝に仕える形をとります。420年に東晋最後の皇帝恭帝から禅譲を受ける形で帝位(武帝)につき東晋は滅亡、宋が建国されます。

五胡(ごこ)は、中国の3 – 4世紀に、北方や西方から中国に移住した匈奴鮮卑などの5つの非漢民族国家で、これらの部族が五胡十六国時代に次々と中国北部を中心に国家を建てていきます。旧代国の後身である北魏が強大化し、439年には華北統一に成功、五胡十六国時代に幕を下ろし以後は、宋と北魏が対峙する南北朝時代に入っていきます。

440年頃の勢力 北魏と宋

六朝文化

魏晋南北朝時代(220年〜589年)には、社会の激しい変動に応じて、学問・芸術・思想・宗教などの各方面に新しい展開がみられ、そのうちでも仏教と道教の発展にめざましいものがありました。

東晋は、皇帝にも暗愚なものが多く政治的には混乱が続いたものの、魏・西晋を経て形成された貴族社会が継承され、宮廷では高度な貴族文化が花咲きます。 南朝の時代も含めた漢民族文化は六朝文化といわれ、中国における宗教の時代であり、この時代に興隆した宗教を基に花開きます。また、僧侶の法顕がグプタ朝時代のインドに行き、戒律を学んで帰り、仏教も民衆に浸透していくようになります。代表的人物は、文学では陶淵明(陶潜)、謝霊運、昭明太子。画家では顧愷之、書道では王羲之、仏教も独自の発展を遂げ、慧遠などの浄土教が生まれました。

女史箴図

仏教文化のはじまり

仏教の受容にともない、仏像・寺院もさかんに作られるようになります。五胡十六国時代に初めて開かれた敦煌(莫高窟:ばっこうくつ)、北魏時代にはじまる雲崗岩窟、龍門岩窟といった巨大石窟寺院はガンダーラ様式・グプタ様式、中央アジア様式の影響をうけています。

莫高窟(ばっこうくつ)

4世紀から約千年間、の時代に至るまで彫り続けられた。大小492の石窟に彩色塑像と壁画が保存されており、仏教美術として世界最大の規模を誇る。

雲崗石窟(うんこうせっくつ)

20kmに所在する、東西1kmにわたる約51窟の石窟寺院。

龍門石窟(りゅうもんせっくつ)

北魏の孝文帝が平城から洛陽に遷都した494年に始まる。

道教の発展

道教は老荘思想が民間思想や不老不死を願う神仙思想などよむすびついた2世紀後半の大平道、五斗米道( 天師道 )が源流とされています。さらに、北魏の寇謙之が 天師道 に仏教を取り込み改革を加えて新天師道を始め(423年)、国家宗教とし 道教は広く普及するようになります。以後、儒教・仏教とならんで中国思想の主流を形成するようになるとともに、不老長生と現世的利益を願うその教えは民衆のなかに深く溶け込んでいきます。

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