- はじめに
- 長江文明の変遷
- 遺跡の特徴
- 玉蟾岩遺跡(ぎょくせんがんいせき)紀元前14000年 – 紀元前12000年
- 彭頭山文化(ほうとざんぶんか)紀元前7000年 – 紀元前5000年
- 河姆渡文化(かぼとぶんか)紀元前5000年? – 紀元前4000年?
- 馬家浜文化(ばかほうぶんか)紀元前5000年- 紀元前3800年
- 大渓文化(たいけいぶんか)紀元前4500年 – 紀元前3300年
- 崧沢文化(すうたくぶんか) 紀元前3800年 – 紀元前3500年
- 良渚文化(りょうしょぶんか) 紀元前3500年 – 紀元前2200年
- 屈家嶺文化(くつかりょうぶんか)紀元前3000年 – 紀元前2500年
- 石家河文化(せつかがぶんか)紀元前2500年
- 呉城文化(ごじょうぶんか)紀元前1400年 – 紀元前1000年
- 四川文明
はじめに
日本人のルーツ。決め手となるY染色体はD2
Eタイプのユダヤ人説はアウト~。
苗族、チャン族は同じDでもD1,D3で関連は薄いようだ。
中国江南文化について詳しく調べていくー。
長江文明の変遷
中国の長江(揚子江)流域で発達した文明。
紀元前8000年以前から紀元前2000年頃まで続く、中国三大文明(残り黄河文明、遼河文明)の中では最も古い文明です。長江上・中・下流域に分類し、それぞれが互いに影響しあい、かつ独自の発展を遂げていったと考えられています。
なお、長江上流の四川省あたりの領域は四川文明とも呼ばれます。
黄河文明と大きく違うのは、稲作漁労民が長江、畑作牧畜民(アワ、キビ、ムギなど)が黄河中心というところで、日本に伝わった稲作(ジャポニカ米)は長江領域から伝わってきたというのが定説になっています。
長江文明は南方から移動してきた南方モンゴロイド族、黄河文明は西方トルコ祖族、遼河文明はモンゴル祖族により興ったようです。(紀元前7000~紀元前3000年)
紀元前2000年頃、寒冷化が訪れ、中国北部の畑作牧畜民(漢民族)が南下。
長江文明の稲作漁労民を滅ぼしていきます。(日本でも三内丸山遺跡が崩壊)
さらに、紀元前1000年頃に寒冷化が訪れ、畑作牧畜民(騎馬民族)のさらに激しい南下があり、稲作漁労民は雲南省、貴州省に非難、日本へと船で渡って水稲を伝えたと考えられています。
なお,滋賀県守山市で発掘された弥生時代中期の下之郷遺跡からは,温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカの両方の稲が確認されており,東南アジアから直接の伝来もあったようです。
遺跡の特徴
玉蟾岩遺跡(ぎょくせんがんいせき)紀元前14000年 – 紀元前12000年
湖南省道県。稲モミが見つかっているが、栽培したものかは確定できていません。
彭頭山文化(ほうとざんぶんか)紀元前7000年 – 紀元前5000年
湖南省澧県。 散播農法が行われており、中国に於ける最古の水稲。
縄目の模様をつけられた土器(索文土器)が多く出土。最古級の環濠集落
河姆渡文化(かぼとぶんか)紀元前5000年? – 紀元前4000年?
浙江省余姚市。 下流域では最古の稲作。遺跡からは干欄式建築(高床式住居)が数多く発見されています。狩猟や、漁労、ブタの家畜化なども行われていました。織物の機械(『文物』1980-5・『浙江文物』)、紡錐車・骨製の針も出土しています。
河姆渡文化の人は、日月神(日の中に鳥が入っているという中国伝説。日月の鳥の目)を崇拝しました。双鳥と天体の図柄(『浙江文物』・『中国古玉の研究』・『史林』74-4)、土器に見える動植物に原形をもつ写生でない象徴的な図柄(『浙江文物』・『考古学報』1978-1)、葉を束ねたような図像(『東南方化』1992・『文物』1980-5)など、河姆渡人の世界には空の鳥、地上の植物、水辺の植物、水中の魚などを原形とした神や精霊が多数いて、日用の器物にも飾られ、お守りにも使われました。(林巳奈夫『中国文明の誕生』吉川弘文館)
馬家浜文化(ばかほうぶんか)紀元前5000年- 紀元前3800年
浙江省嘉興市。
河姆渡文化を継承、発展させた文化。灌漑が行われ始めます。土器は紅陶が主で、縄紋がなくなり鼎が出現。玉器の装飾品も出土しています。また、蔓の繊維を使った織物のクズが発見され、夏用の下着・ふきん(『周礼』掌葛・『説文解字詁林』)と思われています。羅という特殊な織り方で、山形や菱形の紋様(『文物資料叢刊』・『中国紡織科学史(古代部分)』)があります。またヒスイなどによる装飾品や比較的高い温度で焼いた紅陶、衣服の繊維なども発見されています。
大渓文化(たいけいぶんか)紀元前4500年 – 紀元前3300年
重慶市巫山県大渓遺跡を代表とする。 彩文紅陶(紋様を付けた紅い土器)が特徴で、後期には黒陶・灰陶が登場。灌漑農法が確立され、住居地が水の補給のための水辺から大規模に農耕を行う事の出来る平野部へ移動しました。稲の栽培も大規模に行われ、竹編みの泥壁のある家屋や、環濠集落なども発見されています。長江下流のデルタ地帯との文化の交流があったことがわかっており、白い皿などの遺物は、太湖周辺の馬家浜文化の遺跡からも発見されています。
逆に、大渓文化の遺跡から発見されたヒスイの玉といった遺物は、馬家浜文化の影響を受けた可能性があります。
崧沢文化(すうたくぶんか) 紀元前3800年 – 紀元前3500年
上海市青浦区崧沢村。 玉による腕輪など、装飾品が作られ始めました。崧沢文化の遺跡からは石器や骨器のほか、墓穴からは副葬品として多数の玉器が発見されています。また陶器では鼎などの調理器や食器が出土し、夾砂紅褐陶や泥質紅陶をはじめとして、さらに高温で焼いた黒陶、灰陶なども出土しています。土器片の中には、刻画紋や刻画符号などが刻まれているものもありました。遺跡からは籾殻など稲作の痕跡を示すものや、食べた獣や魚などの骨も見つかっています。社会は母系社会から父系社会に移る過渡期だったと考えられています。
良渚文化(りょうしょぶんか) 紀元前3500年 – 紀元前2200年
浙江省余杭市良渚鎮。馬家浜・崧沢を受け継いだ文化。多数の玉器の他に、絹が出土。宮殿とそれを取り巻く城郭都市、墓地、工房などの中国最古級の都市遺跡が出土しています。
分業や階層化も行われたと見られ、殉死者を伴う墓が発見されています。黄河文明の山東龍山文化とは相互に関係があったと見られ、同時期に衰退したことは何らかの共通の原因があると見られています。近年、長江文明研究の進展により、良渚文化は夏や殷王朝に比定されています。また、黄帝の三苗征服伝説を、黄河流域の中原に依拠した父系集団の龍山文化による三苗(ミャオ族)征服の痕跡とみなし、黄河文明と長江文明の勢力争いを描いたものとする見方もあります。
屈家嶺文化(くつかりょうぶんか)紀元前3000年 – 紀元前2500年
湖北省京山県屈家嶺遺跡。大渓文化を引き継いで、轆轤(ろくろ)を使用した黒陶が特徴。
河南地方の黄河文明にも影響を与えたと考えられています。
黒陶
石家河文化(せつかがぶんか)紀元前2500年
屈家嶺文化から発展し、湖北省天門市石家河に大規模な都城を作った紀元前2500年ごろを境として屈家嶺と区別。この都城は南北1.3Km、東西1.1Kmという大きさで、上述の黄河流域の部族と抗争したのはこの頃と考えられています。
玉鳳
玉人首
呉城文化(ごじょうぶんか)紀元前1400年 – 紀元前1000年
江西省樟樹市呉城鎮。 黄河文明とは異質な青銅器を特徴とし、原始的な磁器なども出土しています。
呉城文化は、黄河流域の河南省鄭州市付近で栄えた二里岡文化(商代初期の中心地だったとも考えられる)が長江付近まで勢力を伸ばしたことにより誕生したと考えられています。
長江文明の長い伝統と、強力な青銅器文化である二里岡文化の影響が交じり合っているさまが呉城文化にはみられ、呉城文化は四川盆地の三星堆遺跡、および黄河中流域の殷墟と同時代の文化です。
陶製の面具
青銅の鼎
四川文明
四川は中国内陸部で地形的に他の地域と途絶している場所で、そこで発見された文明は黄河・長江よりおくれ、異質な文明を発展させていたため四川文明と分類されることもあります。
宝墩文化(ほうとんぶんか) 紀元前2500年- 紀元前1700年
成都市新津県龍馬郷宝墩村。
新石器時代の城壁で囲まれた集落が成都平原の岷江扇状地に複数存在しています。
最大の遺跡である宝墩遺跡は1990年代に発見され、発掘が続いています。
三星堆遺跡(さんすいたい)紀元前2800年ー紀元前800年
四川省徳陽市広漢市南興鎮
三星堆の特徴は、大量の青銅器が出土し、目が飛び出た仮面・縦目の仮面・黄金の杖、青銅の人像の顔に被せられた黄金面といった怪異な面が多数発掘されることです。
竜馬鎮から,長辺 60m,短辺 40m,3層からなるピラミッド型の祭壇と城壁をもつ都市遺跡が発見され竜馬古城遺跡と命名されています。
また子安貝や象牙なども集められており、権力の階層があったことがうかがい知れます。長江文明と同じく文字は発見されていないものの「巴蜀文字」と呼ばれる文字らしきものがあり、一部にこれをインダス文字と結びつける説もあります。
記述にはほとんどないものの、古代にあったとされる蜀の国だと考えられ、秦の恵文王の紀元前316年に司馬錯によって滅ぼされて秦の版図に入ったことがわかっています。
青銅製の人頭像
青銅縦目仮面
竜一匹、鳥十羽が描かれた青銅の木。古代蜀国の日、鳥、天、竜、木などに対する自然崇拝やトーテム崇拝、「三星堆文化」の中の暦法なども表しています。
全身立像
青銅製の太陽輪
青銅で作られた獣面像
稲作
長江文明は初期段階から稲作が中心で、長江の中流域から始まりました。
世界の稲の源流はこの地域で、日本の稲作の源流もこことみられています。
紀元前7000年~5000年頃には彭頭山文化(ほうとうざんぶんか)で稲作の散播農法(さんぱんのうほう)が始まり、紀元前5000年頃には下流域の河姆渡遺跡で営まれていました。
日本では、紀元前4500年頃に岡山県・朝寝鼻貝塚からイネのプラント・オパールが発見されており、長江下流域との交流がこの時期にはすでに始まっていたものと考えられます。この時期の日本では陸稲が行われていました。
紀元前2000年以降になると、長江上流域、黄河中、下領域にも伝搬します。
日本への水稲伝来は紀元前1000年以降になります。
朝鮮半島を経由して伝わった痕跡はみられず、山東半島か、長江下流(江南地域)から伝わってきたものと推測されます。
民族
長江文明を築き、受け継いでいる正確な民族ははっきりとしていません。
考えられている民族として、苗族(みゃおぞく)、イ族、春夏戦国時代に楚・呉・越を築いた民族などがあげられます。
長江文明に貢献した最も古い民族として現在の苗族(みゃおぞく)があげられます。
苗族は、現在は中国南部に住む民族ですが、もともとは黄河流域に住んでいました。
紀元前3000~紀元前2000年頃におこった寒冷化により、漢民族の南下が始まり、その戦いに敗れて紀元前2000年頃から長江流域に移り住んでいました。
この寒冷化により民族南下の大移動は世界においてもみられ、日本でもおこっています。
四川省涼山に住む少数民族イ族(旧族名: 夷族、倭族)は中国西部の古羌族の子孫。チベット族、納西族、羌族の先祖でもあるといわれています。
春夏戦国時代には長江下流で興った楚・呉・越を築いた民族とも考えられていますが、イ族はその末裔とみる学者もいます。(呉と越は同じ民族)
しかし、呉、越、楚は秦の始皇帝の統一戦争に屈し、更に南遷、一部は貴州省や雲南省等条件の悪い山岳地域へと移り住み、一部は長江を舟で下り、台湾、日本へ辿り着き稲作文化を伝え、弥生時代をもたらしたという説が浮上してきています。
風俗・宗教
長江文明の特徴は、母系社会であること、稲作や高度な航海技術を持っていたこと。文字を持たなかったこと。太陽と鳥を崇める宗教を持っていたこと。鏡と剣による祭祀があったこと。高度の玉の加工技術があったこと。呪術が盛んだったこと。顔に入れ墨を入れていたことなど、魏志倭人伝の邪馬台国の描写に共通するものがあります。
家畜や民族の安泰を祈願し木で組んだ門を家畜に潜らせ魔を祓うものや、鶏を処しその結果で占いをするという日本の弥生初期に通ずるアニミズムが残っています。
参考
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真理の島 四国(愛媛、香川、徳島、高知)
公式サイト
至上初!潜在意識のコアからセルフヒーリング。
大うつ・パニック・不安障害も見違えるほど速攻でよくなる
PTSD、解離性障害、トラウマケア、自律神経失調症
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