伊予河野水軍の要「港山城」

はじめに

愛媛の像族、河野氏の水軍の拠点としていた三津浜港。
今回は三津浜港の防衛拠点となっていた「港山城」についての記事です。

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港山城の歴史

港山城は、三津浜港を見下ろす丘の上にあり、港の警備、監視、有事の際には軍船で出撃するには好都合な立地条件を備えていました。
東西に本丸と二の丸が伸び、現在は整備され陸続きとなっていますが、かつては島のような状態だったようです。

港山城は室町時代の建武の新政時(1334~1336年)に、河野氏が風早郡(旧北条市)から松山平野の湯築城へ拠点を移すときに築城されたと伝えられています。
応仁の乱の時代になると、湯築城の本宗家と港山城を居城とする河野通春の予州家がが対立します。
水軍を持つ予州家は、周防(山口県)の大内家と手を組み細川氏の庇護を受けるなどして本宗家を凌駕していました。しかし、家臣の重見飛騨守がこの城で討死し予州家の勢力が弱まる中、1482年に河野通春が死去後は本宗家に攻められあえなく落城します。
本宗家の手に渡った港山城には河野氏の水軍衆が置かれ、忽那氏(くつなし)が湊山衆として統率し、戦国時代は伊予に侵入してきた大友氏や毛利氏に対する防衛の要として重要な役割を果たしていました。 

1585年5月の豊臣秀吉の四国征伐に伴って、伊予に攻め寄せた小早川隆景の伊予平定軍の攻撃で落城して廃城となります。
廃城ののち江戸時代になってからも松山藩の船奉行と軍用船が置かれるなど水軍の根拠地となっていました。

港山城跡の所在地

港山城は、伊予鉄「港山駅」を降り、南(主道と反対)に数分歩いた場所にあります。

港山城跡

「港山城」の入り口。
数年前まではかなり雑草が茂って階段がほとんど見えない状態で、
登る気が失せて諦めていました。

登った人のブログを読んでも、
蜘蛛の巣やひっつき虫がひどかったりと、
諦めた人も多かったのですが、近年整備されたみたいです。

朝6時半。
ちょっと散歩の様子見のつもりだったのですが、
これならいけそうだと思い、登ることにしました。

登山横にはお地蔵さんがあります。

入口の細い階段を少し登ると道が開けてきます。
結構広々として登りやすそう。

道も竹林のようになっていて、舗装されています。
けっこう緩やかな坂道なので、これなら楽々いけそう!

と思いきや、だんだん勾配が険しくなってくる・・。
地面は竹の笹の枯れ葉で覆われていたので、滑って転げそう。
そして、「蚊」がめちゃくちゃ多い!
サンダル、半そで、短パンで登っていたので、刺されないようにラッシュで駆け昇るー。💨
石垣跡も残されており、くねくね蛇行しながらの道に。

うっそうと茂った竹林を抜けると、目の前に興居島の小富士が。
絵に描いたような風景が広がっていました。
しかし、蚊にぶすぶす刺されてかゆいかゆい。
朝からまさかのダッシュでつかれた。

しかし、そんな疲れも忘れさせてくれる絶景。
近所にこんな見晴らしのいい場所があったなんて!

この場所に本丸か館のようなものがあったんでしょう。

周囲は、草もきちんと刈られています。
標高は50mくらいの高さなので5~10分程度で山頂に到着できます。

おまけ
城の入り口近くには江戸期の俳人、小林一茶が洗心庵という所で俳句会を開いていたようです。
こんな場所に
「小林一茶きたん?」
と思えるようなき近所の人も知らないひっそりとした場所です。

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