物部氏の祖 饒速日(ニギハヤヒ)とは

はじめに

愛媛の有力豪族であった越智氏の遠祖は饒速日(ニギハヤヒ)。
越智氏の氏神を祀る大浜八幡大神社でも饒速日命が祭神となっています。
饒速日命は、古代の有力豪族物部氏の祖で、越智氏も物部氏の中の一支族になります。
今回は饒速日のことについて書いていきます。

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饒速日(ニギハヤヒ)とは

瑞穂の国(日本)で大国主神と少名彦名神が国造りを終えた後、天照大神はこの地を治めるため瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を宮崎県の高千穂に降臨させます。(天孫降臨)その地に勢力を築いた神武天皇はやがて大和国(奈良県)に入って即位し大和朝廷の基礎を築きます。(神武東征)しかし、神武天皇が大和国に進出したときに、すでに大和国を統治していた同じ天孫族(天津族)の王がいました。
日本初代の王。それが饒速日(にぎはやひ)です。

ニギハヤヒの降臨神話

【先代旧事本紀】巻第三・天神本紀 - 現代語訳
日本古代の大族「物部氏」についてのWebサイトです。年表、人物事典、地方分布表、先代旧事本紀など。

饒速日(ニギハヤヒ)も天照大神の命で降臨した話が記紀に記載されています。

天照大神が最初に息子の天忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)を降臨させようとしたところ、
自分よりも息子の饒速日を降臨させたいと願い実現します。
天照大神は、降臨するに際し皇位の証し十種の神宝を饒速日に授けます。

・沖津鏡(おきつかがみ)
・辺津鏡(へつかがみ)
・八握剣(やつかのつるぎ)
・生玉(いくたま)
・死返玉(まかるかへしのたま)
・足玉(たるたま)
・道返玉(ちかへしのたま)
・蛇比礼(おろちのひれ)
・蜂比礼(はちのひれ)
・品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

饒速日は船長となって数多くの隋神・隋臣を伴って「天磐船」に乗り込み大和の地に降臨します。
三十二人の将軍、五人の部の長、五人の造の長、二十五部隊、船長・梶取など。
初めに河内国河上の哮峯(いかるがのみね)に天降り、それから大和国鳥見の白庭山に遷御しました。
饒速日は天磐船に乗って大虚空(おおそら)を飛翔して国を見定め、
虚空(そら)にみつ日本(やまと)国 (空に光り輝く日本の国)」
と言います。
これが日本の国号の始まりとなりました。

そして、饒速日はその地のリーダー長脛彦(ながすねひこ)の妹三炊屋姫(みかしきやひめ)を娶ります。
しかし、妃の出産直前に亡くなります。天上の高皇産霊尊は速飄(はやかぜ)を使者として送り、ニギハヤヒの屍骸を天上に迎えて、七日七夜哀しみます。
饒速日の死後に生まれたのが宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)です。
神武天皇が東征で大和に来た時、抵抗はしましたが、神武天皇が同じ天津族と知り、さらに武力の差の違いから無駄な血を流して戦うことは無意味と悟るも、争うとする叔父長脛彦を殺します。
そして、神武天皇に服従し、饒速日が持っていた十種の神宝を神武天皇に献上します。
やがて、宇摩志麻遅命と鴨王は大臣として神武天皇を補佐し大和朝廷の礎をきづいていくのでした。
宇摩志麻遅命は物部氏となり、鴨王は大物主神を祀る三輪氏・大神氏の祖となります。

『先代旧事本紀』では天照大神の孫・天忍穂耳尊と高皇産霊尊の子・栲幡千千姫(萬幡豊秋津師比売命)との子である天火明命と同一神とされています。
(これに異論を唱える説もあります。)
妃の天道日女命との間には尾張氏、渡会氏の祖となる天香語山命、長脛彦の妹の三炊屋姫との間に産まれた宇摩志麻遅命は穂積氏、采女氏、越智氏などの祖となります。
天道日女命は大己貴命(大国主神・大物主神)の子、三炊屋姫は事代主神の子といずれも母系は出雲系であることから饒速日は出雲(三輪氏)系と友好関係にあったことが推測できます。
それ故に、越智氏の氏神を祀る大浜八幡大神社には出雲系の摂社が祀られているんだと思います。

別名

天津族で神格は太陽神です。
国津神で三輪氏の氏神で蛇神である大神神社の祭神大物主神と同一という説もあります。
(物があるから?)
大神神社には物部氏との関係については触れられていません。
天火明命、饒速日命、櫛玉命、天照国照彦火明櫛玉饒速日命、櫛玉神饒速日命 等

祭神とする主な神社

物部氏の系図

宇摩志麻遅命の正統は、大和国十市(磯城)郡穂積里(現、田原本町大字保津)にいた穂積氏で、孝元天皇~成務天皇朝に后妃を輩出しました。
饒速日命が大和入りしたとき天物部を率いていたことや、軍事・刑罰という職から次第に強大化し、大連の位につく者を輩出したため、一般に「物部氏族」とよばれるようになります。
畿内のみならず諸国に極めて多数の支族をだし物部八十氏とも百八十氏ともいわれました。
用明天皇崩御後に排仏派の物部守屋は蘇我氏に敗れて大きく衰えていきます。壬申の乱後に勢力をかなり回復して、奈良朝以降の本宗家となった石上朝臣氏では左大臣麻呂、大納言宅嗣などの高官を輩出しますがそれも長くは続かず平安期に入って衰えていきました。

饒速日命(ニギハヤヒノミコト)ー登美夜毘売(櫛玉姫命、ナガスネヒコの妹)
宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト) 
 神武天皇時 鴨王とともに申食国大夫(大臣のようなもの)に任じられた。
彦湯支命(ヒコユキノミコト)
 綏靖天皇時に初めて足尼となり、次に申食国政大夫となって大神を奉斎したとされる。
出石心大臣命(イヅシココロノオオオミノミコト)
孝照天皇時に宇摩志麻治命後裔の出石心命が大臣となったとされる。
大水口宿禰(オオミナクチノスクネ)
 穂積臣采女臣
ー大矢口宿禰命
伊香色雄(イカガシオ)
古墳時代 10代崇神天皇のとき大物主神を祀る「神班物者(かみのものあかつき)」に任ぜられた。大田田根子の時代
物部十市根命(もののべのといちめのみこと)
古墳時代 11代垂仁天皇在位期では五大夫の1人に数えられる。、武渟川別阿倍臣祖)・彦国葺和珥臣祖)・大鹿島中臣連祖)・武日大伴連祖)らとともに「大夫(まえつきみ)」の1人に数えられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられている
物部 胆咋 (もののべ の いくい)
古墳時代 成務天皇の時に大臣になり、成務天皇仲哀天皇神功皇后に仕えた。
仲哀天皇の崩御に際し、皇后の気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、後の神功皇后)と大臣の武内宿禰は天皇の喪を秘匿した。その上で、皇后は、中臣烏賊津(なかとみ の いかつ の むらじ)・大三輪大友主(おおみわ の おおともぬし の きみ)・物部胆咋連・大伴武以連(おおとも の たけもつ の むらじ)にも、「天皇がなくなったことを百姓(=人民)に知らせてはならない」と告げた。
物部 五十琴(もののべ の いこと)
古墳時代 神功皇后のときに大連となった。
物部 伊莒弗(もののべ の いろふつ)
古墳時代 17代履中反正天皇の時代に大連になり、石上神宮を奉斎したとされる。
物部 目(もののべ の め)
古墳時代 21代雄略天皇の即位により大連となる。
物部 荒山(もののべ の あらやま)
古墳時代 26代宣化天皇の代に大連となった。
物部 尾輿(もののべ の おこし)
古墳時代6世紀半ば)の豪族。27代安閑欽明両天皇の頃の大連
欽明天皇元年(539年)、大伴金村任那4郡を百済に割譲したことを非難し、金村を失脚させて、政界から引退させた。欽明天皇13年(552年)の聖王(聖明王)から仏像経典などが献上された時(仏教公伝)には、中臣鎌子と共に廃仏を主張し、崇仏派の蘇我稲目と対立した。
物部 守屋(もののべ の もりや)
古墳時代 敏達天皇元年(572年)、敏達天皇の即位に伴い、守屋は大連に任じられた。
仏教の礼拝を巡って大臣蘇我馬子と対立し、物部氏が滅ぼされた。丁未の乱(ていびのらん)

物部氏 - Wikipedia

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