「三ツ鱗」と伊予河野氏、執権北条家との関係

はじめに

現在NHKで「鎌倉殿の13人」が放送されていますが、鎌倉時代に活躍したのが執権北条氏。
壇ノ浦の戦い、元寇襲来の時には伊予水軍の河野氏が活躍し、御家人衆として重用されていました。

河野氏の家紋は「折敷に三文字」がよく用いられていますが、北条氏の家紋「三ツ鱗」も使われることがあるそうです。私の家の家紋も「三ツ鱗」でどういう関係にあるのか昔から気になっていましたが、河野氏について調べていくと、北条氏と深い関わりがあったことがわかりました。
今回は、「三ツ鱗紋」と河野氏、北条氏との関わりについて調べてみました。

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三ツ鱗紋とは

北条紋

三角形が連続した模様を「鱗紋」といいますが、三角形が3つ並んだ鱗紋を「三ツ鱗」といいます。
蛇の鱗、あるいは龍の鱗を表すものとされています。
この家紋は鎌倉執権北条家、そして戦国時代は後北条家(伊勢氏)が使用したことでよく知られています。「三ツ鱗」の形は正三角形のものと二等辺三角形のものがあり、北条氏は二等辺三角形のものをよく使用していたようです。
北条氏の代表紋だけに他氏ではほとんど使用しておらず、関係氏族には一つ鱗や五つ、六つ、九つの鱗を用いているものがあります。
北条氏以外では秀郷流の中村氏、越智氏流の河野氏らが三つ鱗を用いています。

また、「図形の全体をいくつかの部分に分解していった時に全体と同じ形が再現されていく構造」をフラクタルといいますが、三ツ鱗紋様も同じ様にフラクタルの代表として扱われます。
世界の文化、記紀、人間心理、歴史の流れにおいてもフラクタルがよくみられます。

フラクタル

世界の文明た神話に共通点があるのも、一種のフラクタル現象なのだろうと思います。
深く考えると、永遠無限思考ループにはまっていくのもフラクタルがひきおこしているのでしょう。
ある意味、強迫観念にとらわれてしまっている人は、フラクタルを知るといいのかもしれません。
あまり考えすぎても無意味なこと。やってもやっても完全なものにはたどり着けないのであります。

三ツ鱗紋のルーツ

三ツ鱗紋のルーツとして執権北条氏と、奈良大神神社起源があげられます。

北条家の三ツ鱗のルーツ

北条時政

三ツ鱗紋が有名になったのは執権北条氏が使用したことからですが、その起源の伝説が「太平記」にあります。
「太平記」によると、北条時政が、子孫繁栄を願うため江の島の御窟(現在の岩屋)に参籠し祈願したところ、三、七、二十一日目の夜に弁財天が現れ、やがて大蛇となり海中に消えていきました。時政は願いがかなったと喜び、そのあとには三枚の鱗が残され、これを家紋にしたと伝えられています。

江島神社の社紋「向い波の中の三つの鱗」も、北条家の家紋「三枚の鱗」の伝説にちなみ考案されたものです。

江の島の社紋「向い波の中の三つの鱗」

奈良県大神神社(おおみわじんじゃ)の杉紋

もう一つの起源が奈良大神神社の杉紋です。
蛇紙大物主神を祀る大神神社の神紋は「三本杉」と「左三つ巴」ですが、その後裔が豊後大神氏へと繋がります。
源平時代に活躍した豊後(大分県)の緒方三郎惟栄は平氏に与したことから常陸には配流されたのち赦され、佐伯庄に落ち着きその子孫佐伯(さいき)姓を名乗ったとされています。(ただし異論もあり)その子孫一族は「三つ鱗」「三つ巴」を用いていますが、「三つ鱗」は「三本杉」が変形したものと考えられています。

大神神社の杉紋

豊後大神氏(緒方、佐伯氏)の三ツ鱗紋

赤松・佐伯氏

大神神社系統の氏族は、三輪山伝説をはじめとする「蛇神伝説」が記紀や平家物語に残されていますが、北条氏の江の島伝説も蛇に絡んだ伝説であることから、大神氏の一族ではないかと考える研究家もいるようです。
私の家も平氏の落人と伝えられ家紋は「三ツ鱗」「左三つ巴」。
北条氏も平氏の流れで、平氏同士でつながります。
結構類似点があるので、北条家も大神氏ルーツのような気がしますね~。


伊予河野氏と北条家の関係

で、河野氏と執権北条氏との関係についてです。
源平時代の河野氏は、河野通信(かわの みちのぶ)が源義経とともに水軍を率いて活躍し御家人として重用されます。その後、奥州藤原氏攻めに参戦、源頼朝死後は梶原景時の変のときにも関わり北条時政に気に入られその娘を娶ったと伝えられています。
道信の孫が、踊念仏で有名な時宗開祖一遍上人になります。

河野氏と執権北条氏は親戚関係に当たることがわかりましたが、もうひとつ気になる点があります。
現在は松山市になっていますが、近年まで松山市の北部、河野氏発祥の風早の地は「北条市」と呼ばれていました。
北条氏と北条市で地名と一致し、何か関連性があるのかと思う人もいるようです。
北条市の地名も北条氏と関係するのか調べてみるとWikiに答えが書かれていました。
北条市の位置

宗昌寺の「寺領坪付文書」によると、律令制の時代に、条里制が当地に布かれた形跡がうかがわれ、「北条」の地名はこの条里制に由来するものといわれている。ただし、「西条」は西条市が該当するが「東条」「南条」と呼ばれる地名はこの地方にはない。

北条市

北条市のほうは、大宝律令の条理制からきているもので、関係なさそうですね。

ミツウロコ紋はプロビデンスの目なりー

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