三輪・大神氏に伝わる蛇神伝説の起源 ~日本人のルーツ~

はじめに

日本の蛇神伝説として最も有名なものが古事記に書かれた三輪山の大物主神のものでしょう。
「美しい娘の元に夜ごと通い来る男あり。麻糸を通した針を男の衣の裾にそっと刺し、翌朝糸をたどって男の素性を知る。蛇神だった」
という『古事記』「崇神天皇」の条で知られる「蛇婿入り」神話です。
この話は、三輪山だけでなく、大分県の豊後大神氏の祖とも伝わる大神惟基(おおがこれもと)の出世話にもあります。大神氏の血筋には代々、蛇神にまつわる伝説が「平家物語」に記載されています。
実は、この神話は、日本だけでなく、中国、韓国、アジアにもあり、その起源は中国(雲南省)にあるようです。

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奈良大神神社ー大物主神の蛇神伝説

日本の蛇婚入り神話で最も有名なのが、古事記に書かれ三輪山の「蛇婿入り」神話。
麻糸を通した針を男の衣の裾にそっと刺し・・というタイプの話を「針糸型」と呼びます。

三輪伝説(古事記)

神武天皇の皇后(姫蹈鞴五十鈴姫命)の母活玉依毘売(イクタマヨリヒメ 三島溝杭の娘)と大物主神との交わりの話。

活玉依毘売(イクタマヨリヒメ)は容姿端正であった。ここにある若者がいた。これも姿恰好当時無類であった。

ある夜、その若者が突然音もなくやってきた。両人ともお互い感じ入って結婚して共に住んだ。まださほど時も経っていないのに、女は妊娠した。父母はそれを不思議に思い尋ねた。娘は、貴く立派な若者が毎夜来て共に住んでいたら身篭ったと答える。

そこで父母はその男の素性を知ろうとして、娘に赤土を床の前にまき散らし、閉蘇紡麻(へそを:糸巻きの紡いだ麻糸)を針に通して、男の衣の裾に刺せと教える。

その通りにして夜明けに見ると、針につけた麻糸は鉤穴より出ていって、あとに残った麻糸は三勾(三巻き)だけだった。これで若者が鉤穴から出た様子が分かり、糸をたよりに辿ってゆくと、三輪山に到着して、大神神社に留まった。それで神の子だと分かった。それで、麻糸が三勾(三巻き)残ったことから、そこを名づけて「三輪」というのだ。

箸墓伝説(日本書紀)

大物主神と百襲姫(モモソヒメ)との間に関わる伝説。

大物主を祀ることで疫病が収まった後、姫蹈鞴五十鈴姫命(やまとととそももそひめ)は大物主神の妻となった。大物主神は夜しか現れなかったので、姫はもっとよく御姿を見たいと言った。そこで大物主神は朝に姫の櫛籠に入るから姿を見ても驚かないでほしいと言った。果たして姫が箱の中を見てみると綺麗で小さい蛇がいた。姫は驚いて叫んだ。大物主神は大いに恥じてすぐに人の形に戻り姫を呪った。大物主神が去った後に姫が腰を抜かして座ったところ、箸で陰部を突いてしまいそのまま亡くなった。姫は大市に葬られ墓は箸墓と名付けられた。この墓は昼は人が作り、夜は神が作ったと言われる。墓を作るため人々は列を作ってリレー形式で石を運んだと伝えられ、この様子が歌に詠まれた。
参考:wiki

豊後大神氏ー大神惟基(おおがこれもと)蛇神伝説

奈良大神神社(おおみわじんじゃ)は三輪氏、大神氏(おおみわ)が神官を務めてきましたが、その分流に豊後大神氏(ぶんごおおがし)がいます。
豊後の大神氏は、阿南氏、臼杵氏(戸次氏、佐伯氏、緒方氏)、大野氏、稙田氏、十時氏など37氏の祖をいいます。

豊後大神氏のはじまりは2つの説があります。
ひとつは、宇佐八幡宮を開いた、大神比義(おおが の ひぎ)を始祖とするものです。
568年欽明(きんめい)天皇の代の時、豊前宇佐郡(大分県)馬城嶺(まきみね)に大菩薩となって出現した応神天皇の魂を,鷹居八幡神社(宇佐市)に建立して祀り、宇佐八幡宮初代大宮司となった人物です。

そして2つめが大神惟基(おおがこれもと)を始祖とするものです。
886年に豊後介を任じられ豊後に赴いた大神良臣(おおみわのよしおみ)が善政を行った」。任期後それを慕った領民の願いにより、その子庶幾が大野郡領としてとどめられ、さらにその子の惟基(これもと)が豊後大神氏の始祖となったとするものです。
ただし、良臣は再任されたという史実が残っている食い違いの点などから、現在では大神比義が大神氏(おおが)の始祖とされています。

この大神惟基には『平家物語』や『源平盛衰記』に、山岳信仰の祖母岳(そぼたけ)大明神のご神体である大蛇と人間の娘との交わりから誕生したという旨の伝説があります。

大神氏の歴史を語る場合、まず大蛇と姫との神婚伝説から始めなければなりません。
大神氏の始祖は「大神惟基(オオガコレモト)」と云われていますが、彼の出生について、江藤本家所蔵の「大神姓系図」(以下江藤系図という)を始め、 ほとんどの大神氏諸系図には、父を祖母嶽大明神(大蛇)としています。
祖母山を祖母嶽大明神と云う神様とし、その化身が大蛇というわけです。
この伝説は「平家物語」や「源平盛衰記」にも記載されています。
それぞれの内容に異同がありますので、ここでは江藤系図に記載されている内容を ご紹介します。
人王50代桓武天皇の時に、堀川の太政大臣基経公が、罪により大野郡緒方荘 日小田名(ヒノダミョウ)宇田萩原意勝水という所に流罪となりました。
基経公には「華ノ本/ハナノモト」という名の一人の女(ムスメ/以下同じ)がありましたが、いつの頃から日、この華ノ本のもとに、毎晩若者が忍び来る ようになりました。
その有様は立烏帽子に水色の狩衣(カリギヌ)を着た美男子だったそうです。 やがてこのことは父母の知るところとなり、母が女に尋ねましたところ、「誰かは知りません。私はすでに妊娠し、早5ヶ月になります。
夫の来るのは 毎夜ですが、どこに帰るかは知りません」  そこで母は女に教えました。 苧環(オダマキ/紡いだ糸を、内をカラにして丸く巻いたもの)と針を与えて、「夫の帰る時、狩衣の襟に針を刺し糸の行く先を尋ねて行きなさい」 女は母の教えのとおりに苧環の端に針つけ、それを狩衣の襟に刺しました。
そして糸を辿っていくと糸は祖母嶽の麓、直入郡入田郷神原の大窟の内に 入っていました。
岩屋の中から痛吟する声(うめき声)が聞こえています。
岩屋の口から女が 「中にいるのは誰ですか、なぜうめいているのですか。」 と聞くと、穴の中から 「私こそ貴女のもとに通っていた者です。
今日の暁に頤(オトガイ/下顎)の下に針を刺されて、大傷でうめいているのです。私の本当の姿は大蛇です。 貴女のもとに通っていたときの姿ならこの穴からでてお会いもできますが、今では変化することもできません。
本当の姿は恐ろしいので、名残惜しいが お会いできません。ここまで訪ねてきたことは忘れません。」 といえば、女は、 「たとえどのような姿でも、今までのお情は忘れません。
どうぞ穴から出て下さい。最後の有様を見ましょう。」と応えました。
大蛇は穴の中から這い出てきました。 長さはどのくらいかわかりませんが、臥したる形(臥長)は五尺ばかりとみえ、目は銅の鈴のごとく、口は紅を含んだごとく、頭には角があり耳はたれ、 赤髭が生えてまるで獅子頭のようです。
二人の侍女は恐怖のあまり急死してしまいました。
大蛇は形に似ず涙を浮かべて、頭ばかりを穴から差し出しました。
女は衣を脱いで大蛇の頭にかけ、自ら頤(オトガイ)の針を抜きましたところ、大蛇はたいそう喜びました。そして「貴女のおなかの子供は男子です。
恐ろしい者の種だからといって捨てないで下さい。姓は大神、名は太夫、諱(イミナ)は惟基とつけて下さい。 子孫の末までお守りしましょう」といって、穴の中から太刀一腰を差し出して女に授けました。  
女が「私はどうしたら安産することができるでしょう」と聞きますと、 大蛇は「私の神通力できっと安産するでしょう」と答えました。
この大蛇が祖母嶽大明神であり、前述しましたように、大蛇の子といわれる「大神惟基」を始祖とする一族は、歴史上「豊後大神氏」と呼ばれています。

大 蛇 と姫 の 神 婚 伝 説

伝説のあるのは穴森神社

尾形(緒方) 三郎 惟栄(おがたさぶろうこれよし)

大神惟基の5世孫の緒方三郎惟栄は、源平の戦いのとき義経に味方をした人物です。
1183年壇ノ浦で平家の軍を破ります。しかし、宇佐八幡宮司の妻が平清盛の娘であったため平家に味方し宇佐八幡宮に火を放ちます。その罪で上州(群馬県)沼田に流され、その地に某女を娶り一子をもうけ沼田と名乗らせます。その後許され豊後に戻り大分県速見郡山香で亡くなりました。現在は、山香にお墓があります。

また、緒方三郎惟栄が三陸に下向し、尾形と改め各社を勧請・再建し、この地に一族が残ったという伝が宮城県にあるようです。

羽田の野尻家に綺麗な娘がいた。娘の所に毎晩お和子さんという人が通ってくるのに母が気がつき、様子を訊ねると、えらく体温の冷たい人だという。母はそれは人ではないと気づき、麻の糸を付けた針を刺すように娘に教えた。

娘はそのようにし、翌日糸を辿って北太田の屏風岩の穴へ行った。中にいたのは大蛇だったが、姿は見せなかった。中から娘に声をかけ、俺の姿は見せられない、お前の腹に子ができたから、生まれたら尾形の三郎惟義(惟栄)と名付けろ、といった。

尾形三郎伝説

尾形姓というと、私が若い時にメール交換していた女性が尾形という人でした。
山形県上山に住んでいた方で、出張で山形にいったときに観光案内してもらったことがあります。
宮城、福島、山形県に多い姓のようですね。これも同種族につながる何かの縁だったのかな。

佐伯氏(さいきし)の蛇神伝説

豊後大神氏の支流のひとつ佐伯氏の子孫だけには、大神惟基の出生伝説を裏付けるかのように、「うろこ」が出たという逸話が残っています。また大神惟基の母が、大蛇から授けられた太刀は「巴作太刀」と呼ばれ、豊後佐伯氏に伝わっています。また、緒方三郎惟義(惟栄)が上野國に流されて、許されて佐伯の地に戻って佐伯氏になったとも言われています。

「祖母岳大神宮の末の家は、代々鱗あり。前の佐伯惟定の嫡男惟重のとき、元和五年己未十一月二十日に脇の下より一つ出る。予(大友興廃記の著者杉谷宗重)年号日付し是を認む。前の惟定には三つ出たる由聞ゆ。」(大友興廃記剣の巻)

佐伯氏と鱗

私の祖先がこの系統です。私には鱗がないですが。
佐伯氏は戦国時代に大友宗麟に仕えていましたが、藤堂高虎の家臣となって愛媛に渡ってきたのです。佐伯は普通「さえき」と読みますが、うちは「さいき」と読むのでなぜかと思えば、大分県の佐伯市も「さいき」と読むとこからきていたようです。
佐伯(さえき)は、かつては朝廷に敵対した蝦夷の佐伯(まつろわぬ民(服従しない民)、土蜘蛛)、
大伴、久米氏につながる佐伯があり混同されやすいようですね。
ちなみに、祖先は周桑郡丹原町あたりの城の城主となり江戸時代は地主となり、一族のお墓が桜三里にあります。戦国時代末期に仕えていた豊後の大友氏が滅んだ後、一族は愛媛に移り住んだようで、愛媛の東予地域には佐伯(さいき)姓が多いです。
越智氏の支配していた地域に近く、丹の取れる中央構造線上にある地域。
大神神社と豊後の中間です。
饒速日とも関わりがある丹(辰砂 賢者の石)が採れた地であったのかもしれません。
昔は土地を多く所有しかなり金持ちだったようですが、ある代の道楽者の祖先が散財し今は落ちぶれております。
関西にいた時、何度も通っていた大神神社が、まさかの氏神だとはほんとびっくりでした。
家紋も豊後大神氏と同じなのでいろいろな謎が解けてきました。
大神神社に通い始めてから急に神話や神社に興味を持つようになったのでほんと不思議です。
氏神様と縁ってあるんですね~。
神など信じていなかった無神論者がその存在を信じるようになりました。
何気なくよくいく神社について調べていくと、実は祖先に関わる神社だったという話もよく聞きます。
何かピピピと気になる神社や引き寄せられる神社があったら、祖先とのかかわりについて調べてみるといいかもしれませんね。

私の祖先のルート

ついでに、同時期に伊予に渡ってきた緒方氏は、愛媛では酒造りで知られた緒方酒造(西日本豪雨の被害により廃業)を開いています。幕末大阪に適塾(現在の大阪大学前身)を開き大村益次郎、福沢諭吉など多くの志士を輩出した緒方洪庵はその末裔にあたります。大神神社の祭神大物主神は、酒造りの神としても知られていますが、ここでも不思議な結びつきがありますね。

銘酒「緒方洪庵」が開いた復興の道 豪雨被害の造り酒屋が地域拠点として復活 – 産経ニュース (sankei.com)

緒方家と、適塾の洪庵は先祖が同じということも分かっている。戦国時代の弘治3(1557)年、緒方家初代が豊後国佐伯(大分県佐伯市)から伊予国に来て、長男が野村の地に根付いた。弟は父とともに豊後に帰ったが、戦に敗れて備中国足守に移り、その末裔が洪庵なのだった。

後百済王始祖 甄萱(けんけん)の類似した伝説

韓国にも類似した話があります。
韓国の古いものと考えられる「針糸」型の話は、高麗の忠烈王11年(1285年)に僧侶一然によって編纂された、韓国最古の歴史書の一つ『三国遺事』のものです。
そこには後百済の始祖「甄萱(けんけん)」(?~936年)の出生に関わるものです。
ただし、ここでは蛇ではなくて「ミミズ」になっています。
日本の話よりも年代は新しいので、日本の蛇婚話は韓国から伝わってきたものではないといえます。

『古記』にはこういっている。すなわち昔、一人の金持ちが光州の北村に住んでいた。娘がひとりいて容姿が端正であった。娘が父にいうには、「いつも紫色の着物をきた男が寝屋に来て共寝をします」。父親はこう答えた。「長い糸を針に通しておいて、その男の着物に刺しておきなさい」。そのとおりして、夜が明けてから糸をたどって行くと、北がわの塀の下にある大き
い蚯蚓の横腹に針が刺さっていた。その後、身ごもって一人の男の子を産んだ。その子が十五歳になると、自分を甄萱と呼んだ。景福(唐の昭宗の年号)元年壬子(八九二年)には王を名のり、都を完山郡(今の全羅北道全州)に定めた。国を治めること四十三年、清泰(後唐の廃帝の年号)元年甲午(九三四年)に、萱の三人の子が反逆したので、萱は(高麗の)太祖に降
服した。そこで子供の金剛(神劒の誤記)が即位したが、天福(後晋の高祖の年号)元年丙申(九三六年)に、高麗軍と一善郡で会戦して敗れ、ついに国が滅んでしまったという。

「針糸」型に見る昔話の「共有地域」の可能性について

中国の蛇婚伝説

中国の「針糸」型の話には三つの型があるようです。

 1、糸をたどると先にいたのがゲジゲジやヒユ、蛇の精、蟒、シロザの葉、ツルドクタ     
ミ等で、池に石灰を撒き沸騰した油を注ぐ等して殺し、娘も雄黄酒を飲んで子を降ろす等とい
う伝承。(黒竜省から四川省までの広い地域に流布する漢族の伝承)
 2、糸の先にいたのは獺やスッポン、亀で、娘はその「遺骨を隠」し、子(その子孫)が「父の遺骨を龍に食わせ」たり、「風水の良い川辺の神龍の角に掛け」たりして、後の宋の太祖とな
るという趙匡胤の尊い出自を語る伝承。(漢族の伝承)
 3、三輪山神話と同様に聖なる祖をもつ子孫の伝説的な物語を語る伝承

日本と韓国における蛇婚姻譚類の比較「針糸」型に見る昔話の「共有地域」の可能性について

中国の三つの話型は、中国の彝族(イ族)を中心とする昔話で、地域的には中国西南部の雲南省を中心に四川省・貴州省の地域にある話だといいます。
イ族はチベット族、納西族、羌族の先祖でもあるといわれる中国西部の古羌の子孫に繋がる民族です。
江南は、苗族、チャン族、アカ族(ハニ族)など少数民族がひしめき合っていますが、どの民族もアミニズムで日本人に類似した点が多いですね。このあたりのいろいろな民族が日本に渡来してきてお互い協力、和合して日本文化を形成しているように感じます。

中央構造線の先にあるのも江南になるのも不思議です。

http://www.chubunken.com/pdf/summary/20160307_01.pdf

参考資料

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真理の島 四国(愛媛、香川、徳島、高知)

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