はじめに
河野氏は、饒速日系の越智氏からでて松山市の北(旧北条市)の風早にあった河野郷に住み河野氏を名乗ったのが始まりでした。
鎌倉時代から南北朝、室町、そして戦国時代までの400年の長きに渡り伊予一円に勢力を張っていました。河野氏は河野水軍(伊予水軍)としてよく知られていますが、その拠点となったのが愛媛県松山市三津浜です。
三津浜は私の住んでいる場所です。
大神神社の三輪にもあるように「三」は蛇神のシンボル。
今回は三津浜の紹介です~。~>゜)~~~
大神神社の神紋
蛇神族の家紋
越智/河野氏の家紋
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三津浜の場所
三津浜は、松山平野の北西部にあたる場所です。
河野氏の発祥の地風早から、松山平野の湯築城へ。湯築城はその名の通り、道後温泉近くにあります。
三津浜の歴史
越智氏の祖小千御子が漂着したとも伝わる地
15世紀頃に成立した河野氏の家伝「予章記」には、
「七代孝霊天皇の子の伊予皇子が伊予国に下り、伊予皇子の子の小千御子がうつほ舟で流されて和介郡三津浦に漂着し越智氏となった」
とあります。
和介郡三津浦が三津浜のことです。
熟田津(にきたつ)説
661年、白村江の戦いで百済軍の救援に向かう斉明天皇の軍勢が伊予の熟田津に停泊したという記録が記されています。
中学校でもでてくる万葉集の額田王の歌
「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」
の熟田津が、三津浜が比定地の一つともされています。
他にも同市和気町,または堀江町に比定する諸説があります。
三津浜夜襲
1600年の関ヶ原の戦いに絡み、西軍の毛利勢、旧河野氏家臣連合軍と東軍の加藤勢の間で行われた戦いがありました。この戦いで三津に上陸した毛利軍は夜襲を受けて大きな打撃を受けて敗北のきっかけとなりました。
夏目漱石が訪れた場所「きせんのりばの碑」
東京から療養として、東大の旧友正岡子規の故郷松山を訪れたときに漂着した港。
「きせんのりばの碑」の横に、
「十一人一人になりて秋の暮」
という正岡子規の句碑が建立されています。
三津浜港を守る港山城(湊山城)
三津浜港を守るのが港山城(みなとやまじょう)です。
1186年鎌倉時代に源義経の元で活躍し御家人となった 河野通信(みちのぶ)が築いたという説もありますが,14世紀の前半 室町時代の建武年間に河野通盛(みちもり)が湯築城に移った時に河野水軍の根拠地とするため海を守る支城として築いたというのが一般的かと思います。
1460年代には分家 予州家の河野通春が本拠とし、宗家の河野教通(こうののりみち)に対抗したとされています。通春は1481年に宗家との戦いで戦死したとも,その後病没したとも言われますが,いずれにしても以後,港山城は河野氏水軍の拠点として機能しました。
とはいえ、通春と教通の抗争は河野氏の衰退を招き、河野氏が守護大名から戦国大名へ成長できなかった一因となります。1585年の豊臣秀吉による四国征伐では小早川隆景の攻撃を受け落城し廃城になりました。
三津の渡し
松山市営の渡し舟は、港山城の麓である80m先の対岸まで行き来しており、「三津の渡し」と呼ばれています。渡し舟の起源は、港山城を築城したあとの食料・物資輸送が始まりとされています。現在でも、近くにいけば船が来て無料で対岸まで乗せていってくれます。
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