はじめに
愛媛の由来は伊予豆比古神社に祀られている愛比売命(えひめのみこと)でした。
明治以前は伊予国(いよこく)と呼ばれていました。
では、伊予国と呼ばれるようになったのはいつからなのでしょうか?
本記事では、国の統治制度(氏姓制度、大宝律令制度)などの説明も添えながら伊予国成立の流れをみていきます。
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古墳時代の地方統治(氏姓制度)と伊予国
ヤマト朝廷は大王(おおきみ 天皇の前の呼称)の元で有力豪族が「氏(うじ)」として奉仕していました。
氏名(ウジの名前)は地名によるもの(蘇我氏、葛城氏、吉備氏、上毛野氏など)と職によるもの(物部氏、大伴氏、中臣氏など)に大別され、臣(オミ)、連(ムラジ)、造(ミヤツコ)などのような姓(カバネ)が結びつけられていました。
臣(大王に並ぶ有力豪族)=葛城氏、平群氏、巨勢氏、春日氏、蘇我氏など
連(職務を氏とし政権樹立に貢献した豪族)=大伴氏、物部氏、中臣氏、忌部氏、土師氏など
国造(地方豪族)=直(なおえ)、君(きみ)の姓が多い
県主(族長レベル)=地名を氏の名とする。
これを氏姓制度といいます。
臣、連で最も有力なのが大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)でした。
物部氏、大伴氏は軍事を担う大連でした。
初地方統治は地方豪族が任じられていたものが、大和朝廷に服して任じられる立場へ変わっていきます。
古墳時代の現在の愛媛には五国造に支配された五つの国がありました。
伊余国(いよこく)、怒麻国(のまこく)、久味国(くめこく)、小市国(おちこく)、風早国(かざはやこく)。
これらの地域には首長墓と思われる前方後円墳などの古墳や式内社の存在があります。
伊余国・・伊予岡八幡神社前方後円墳・三角縁神獣鏡(伊予市上三谷)と伊予神社
怒麻国・・野間神社
久味国・・波賀部大塚前方後円墳・伊予豆比古命神社
小市国・・国分前方後円墳・相の谷一・二号前方後円墳や大山祇神社・多伎神社
風早国・・櫛玉比売命神社前方後円墳、国津比古命神社
1国にはだいたい1氏が一般的ですが、伊予国には5国造が任命され、またそのほとんどは大連の物部氏、大伴氏系(久米氏)の有力者。軍事を司る氏族であり軍事的に重要拠点であったことが推測されます。
饒速日(ニギハヤヒ)を祀る神社が多いですね~。
国造 | 内容(統治場所、初代国造、氏社) |
伊余国造 (13代成務天皇期) |
中予(松前町 伊予市) |
怒麻国造 (14代仲哀天皇期) |
|
小市国造 (15代応神天皇期) |
伊予北部(今治) |
久味国造 (15代応神天皇期) |
中予(松山、東温、久万高原) |
風早国造 (15代応神天皇期) |
伊予北部(旧北条) |
大化の改新前後の伊予の文化の中心地は、熟田津石湯(道後温泉)のある中予の松山平野にあったようです。7世紀前半(600年前半)、現在の久米に日本最古の政庁が建設されています。
(久米官衙遺跡)
聖徳太子、斉明天皇、中大兄皇子、額田王らが訪れ、殊に聖徳太子は日本最古の金石文とされる温泉碑文を伊佐爾波岡に建立したと伝えられています。(伊予国風土記逸文)
大化の改新以降(律令制度)
「伊予国」などの行政区分が行われたのは、第42代文武天皇の時代で701年に制定、施行された
「大宝律令」によるものです。
この改革の大きな柱は、
・公地公民(豪族らの私有地を廃止し朝廷が管理、民衆に口分田として貸し出す)
・班田収授法の制定(口分田を民に貸し与える代わりに税を治めさせる)
・戸籍、計帳の整備(民衆は戸籍、土地は計帳で管理)
でした。
これにより、土地、軍事力の有力豪族への集中を防ぎ、天皇への中央集権化が行われるようになります。この制度により、これまでの国造制が廃止となり、全国を国、群、里に分け、それぞれに国司、郡司,里長がおかれることになります。
なぜ、このような大改革が行われたのか?
それは、663年、朝鮮半島で勃発した白村江(はくすきのえ)の戦いでの敗北があったからとも推測されています。この戦いは、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との間の戦争でしたが大敗北し、その後唐の侵略を恐れて国を強化しようとする動きになっていたようです。
そして、時の天智天皇は防衛のために水城、山城を九州、瀬戸内海に築き、飛鳥から内陸の大津に都を遷都します。
天智天皇が築いた山城分布
伊予国は、南海道の一国に属し、伊予国府は松山平野から瀬戸内海に近い越智郡(今治市)に置かれ政治・文化の中心地となります。これも、唐、朝鮮軍が攻めてきたとき、瀬戸内海ルートを通ってくることを想定してのことだったからでしょう。
平安時代の九世紀後半からは荘園制に基盤を置いた藤原氏による摂関政治がおこなわれます。
荘園制の発展とともに公地公民制も有名無実化し、名主などの農民階層の台頭により律令制は変質、衰退しやがて武士団が勢力を伸ばしていきます。
伊予国司・伊予守
こういった経緯からみると、伊予国は防衛拠点や、九州地方への拠点として大和朝廷にとっては重要な国だったことが考えられます。実際に歴代の国司をみても、初代関白となった藤原基経、三蹟の一人藤原佐里、和漢朗詠集の編者の藤原公任、平清盛の後継ぎ候補であった平重盛、八幡太郎義家の父源頼義、旭将軍源義仲、源平合戦で知名度の高い源義経など高校教科書にでてくる名前がぞろぞろいます。
こう考えると、水軍が重要であり河野氏が水軍豪族となっていったのも納得いきます。
坂上苅田麻呂: 780年頃
紀深江: 835年頃
源頼光: 1018年頃在
源頼義: 康平6年(1063年)・・河内源氏2代目棟梁、八幡太郎義家の父
藤原親信: 1160年頃
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