エジプト先王朝時代
エジプト先王朝時代とは、エジプトを統一する王朝(初期王朝時代、第0王朝)が登場する以前の古代エジプトを指す時代区分を指します。
終末期旧石器文化
現在、広大な砂漠地帯となっているナイル川西方の地域は、紀元前1万年頃から紀元前7千年頃までは年間降水量200mmの湿潤な気候で植物が繁茂し、ノウサギ、ガゼル、オリックス等が生息していました。ナイル川中流域(現在のスーダン中部)でも多数の集落が形成されており、この領域の中石器文化 カルトゥーム(ハルツーム)文化でエジプト最古の土器が発見されています。 豊富な動植物や水産資源に支えられて定住も開始したと考えられています。
新石器時代 紀元前7000年頃
紀元前7,000年前頃から、アフリカ大陸北東部では乾燥化が徐々に進行し始め、人類も水が手に入るナイル川流域へと集まり農耕がはじまる新石器時代が到来します。ナイル川流域の農耕・牧畜文化は、現在では砂漠化している西部砂漠地方に起源を持つ可能性が議論されています。ヒツジとヤギの牧畜は紀元前6000年期後半に、農耕(植物栽培)については紀元前5000年頃のファイユームで発見された麦が現在のところ最古のものです。
上エジプト・下エジプト文化(紀元前5000-3000年)
古代エジプトの人々は、ナイル川流域の土地を上エジプト(南側)下エジプト(北側)と分けて理解していました。不毛の砂漠地帯が広がっていた上エジプト、ナイル川の広大で緑豊かなデルタ地帯が広がり海に面した下エジプト 。 その自然環境に根差した生活習慣や文化にも当然相違があり、先王朝時代にはこの上下エジプトでそれぞれ独自の文化が発達し統一されていきます。
また、上エジプトと下エジプトの境界近くには、 広い湿地帯が広がるファイユーム低地地方が存在し、この地方は中王国時代に干拓が行われるまで独特の景観が形成され人類の生活の舞台になっていました。
下エジプト
ファイユーム文化(紀元前5230-4000年)
縦の緑の線の左にある横になったハート形の緑がファイユーム低地
ナイル西部地方のファイユーム文化は、エジプト最古の牧畜・農耕跡が発見されています。 剥片石器を中心とする石器を用い、穀物を栽培、ヒツジとヤギを飼育していました。 農耕・牧畜を導入したことで生業は多様化したものの生産経済に基盤を置く文化だったことは明らかにされていません。木製と石器の矢じりや、無彩色の陶器が発見されています。
メリムデMerinde文化(紀元前5000-4200年)
ナイル河口付近でファイユーム地方と並ぶ時代の新石器文化が発見されています。集落の形態はシリア地方、メソポタミア、キプロスと共通する要素があり、当時既に死者の埋葬について宗教的な習慣が確立していた可能性ももたれています。
マーディ・ブト文化(前3900-3300年)
上エジプト
バダリ(Badari)文化(紀元前5500-4000)
バダリ文化では 農耕・牧畜を主体としながらも、野生動物の狩猟と漁労に補完されて成り立っていました。砂漠の縁辺部に集団墓地を形成し、土器や装身具、パレット といった多量の副葬品を添えて埋葬する習慣を初めてエジプトで行っていました。 上部が黒い土器、化粧パレットなど出土しています。
紀元前4000年頃
ナカダ(Nagada)文化(紀元前4400-3000年)
ナカダ文化は上エジプトのバダリ文化から発達したと考えられる エジプト南部のアビュドスからナカダ付近を中心とする文化圏です。遺跡の数は主要な物だけでも50を数えます。この頃になると一層農耕と牧畜に重きが置かれるようになり、非常にバリエーションに富んだ土器やろくろ製の物が登場しはじめます。ナカダ文化の遺物の多くは墓地の副葬品で、その中でも最大の特徴がパレットと呼ばれるシルト石で作成されたエジプト独特の遺物の登場です。初期のパレットは四角や円形などの単純なものだったものも、次第に様々な装飾が加えられた儀礼用のものが作られるようになります。またナカダ文化の土器は後代の土器に比べ、極めて高品質であることが特徴です。ナカダ文化はやがて南北へ分布を拡大し、エジプト全域に広がっていくことになります。
紀元前4000-3000年
ダック状パレット
男性の描かれたパレット
紀元前3200-3100年頃
女神像テラコッタ
紀元前3500–3400頃
Mysterious Figurine Of Mythical Individual Dates Back To Egypt’s Naqada Culture 4400–3000 BC
第0王朝(紀元前3300-3150年頃)
ナカダ文化期初期では、集落の大小に関わらず、2つの社会階層が存在しており、時代が下るとともに階層格差が拡大していきます。中でも大きな中心的集落では大型の墓が建造され、これが「王国」の支配者層のものと考えられています。
このような中心集落の遺跡として最大のものが 3600平方メートルの規模を持つ ヒエラコンポリス で、他にはナカダ、アピュドス遺跡が代表的な遺跡となります。エジプトではメソポタミアにみられるジグラッドのような都市国家は形成されず、政治、経済的中心としての大型集落がナカダ期に発達します。 第1王朝成立直前の時期は エジプト第0王朝と呼ばれます。
ナカダ期には、パレスチナやメソポタミアとの交易もあり、土器、印章、ラピスラズリ、図像のモチーフなどはメソポタミアの影響を受けています。ヒエラコンポリスの王墓で発見された壁画やレリーフの中にはメソポタミアの英雄(または神)ギルガメシュの図像と思われる物も存在します。
エジプト史を編纂したプトレマイオス王朝の神官マネトによれば、最初のファラオはメネス(古代語でメニ)であり、それ以前は、「死者の魂 (Spirits of the Dead)」とよばれる神々がエジプトを支配していた。その代表が、「ネケンの魂 (Spirit of Nekhen)」と「ペの魂 (Spirit of Pe)」の神であり、神話では、上エジプトのヒエラコンポリスと下エジプトのブトがそれぞれ中心地とされる。そして、この北と南の二つの地域を統一してエジプト王朝を築いたのが、メネスという。
参考:歴史の世界を綴る
出典:大城道則/ピラミッド以前の古代文明/創元社/2009/p19
エジプト古代文明は、ファラオと呼ばれる王によって統一され、初期はメソポタミア地域のように異民族の侵入もなく安定した統治が行われていました。古代エジプト王国と呼べるのは、メネス(ナルメル)によって統一されてから紀元前4世紀にアレクサンドロス3世によって征服されるまでの期間(紀元前3100年頃〜紀元前332年頃)で、約30の王朝が交替していきます。そのうちの重要な時代を古王国・中王国・新王国の3期に区分しています。
エジプト初期王朝 (紀元前3100-2686年頃)
エジプト初期王朝時代は、エジプト第1王朝、並びにエジプト第2王朝の時代が初期王朝時代に区分されています。エジプトに複数あった「王国」が統合し、全エジプトが初めて一つの政体の下に統合された時代をもって初期王朝時代の始まりとしています。
エジプト第1王朝(紀元前3100-2890年頃)
歴代王
ナルメル→アハ→ジェル→ジェト→デン→アネジイブ→セメルケト→カア
上エジプトと下エジプトもナカダ文化期に統合が始まり、紀元前3000年頃には上エジプトが下エジプトを支配する形で統一されていきます。どのようにして統一されていったかの経緯ははっきりしていませんが、壁画のレリーフ、パレットといったものから上エジプトが支配したということは明らかなようです。
古代エジプトの最初の統一王は考古学的にはアピュドス (アピドス) の王ナルメルと言われています。前3世紀のエジプトの歴史家マネトや古代ギリシアのヘロドトスは、第1王朝の初代王は伝説上のメネスであると記述しており、ナルメルはメネスと同一人物と比定されています。しかし、アビュドス遺跡の発掘では「メネス」という名前は出てこないため、メネスは特定の人物ではなく、カア、スコルピオン2世、ナルメル等、複数のファラオを表しているという説もあります。
一般にナルメルが確認される紀元前3150ー3050年頃からをエジプト初期王朝時代とし、ナルメルに始まる王朝をエジプト第1王朝と呼んでいます。
ナルメルはエジプトを統一後、リビアやパレスチナ方面にまで遠征を行いエジプトの勢力を拡大します。跡を継いだアハ王はナイル川を上流の第1瀑布近辺まで、第3代目のジェル王は更にナイル川を遡って第2瀑布近辺まで遠征隊を派遣しシナイ半島を征服、王権が著しく強化されます。第4代目ジェト王の治世は記録が無くわかっておらず、第5代デン王の治世には上下エジプトを統べる王としての王権理念が確立され官僚制や徴税制度の整備が行われます。第一王朝最後の王はカアですが、なぜ終焉したのかは資料が乏しくわかっていません。
ファラオ
「ファラオ」は古代エジプトの王の称号です。正式な称号として採用されたのは第18王朝のトトメス3世が最初。「ファラオ」は「大きな家」という意味の古代エジプト語「ペル・アア」が語で王宮を指します。ファラオは即位すると五重名という5つの名前を持ちます。
・ファラオの象徴1:プスケント
ファラオの被る冠(プスケント)は、赤冠(デシュレト)とコブラが下エジプト、白冠(ヘジェト)とハゲタカが上エジプトを意味する上下エジプト統一の象徴の二重冠構造となっています。
・ ファラオの象徴2:五重名
古代エジプトではホルス名、二女神名(ネブティ名)、黄金のホルス名、上下エジプト王名(即位名、ネスウト・ビティ名)、誕生名というファラオの五重称号が使用されていました。このうちホルス名、二女神名、即位名の三つが第1王朝時代に使用されます。
名称 | アイコン | 囲み | 使用開始時期 |
ホルス名 | セレク | 初期から | |
ホルス名はファラオが用いたもっとも古い称号。ホルスはエジプト神話の天空と太陽とハヤブサの神。ホルス名の最初にはホルス神を象徴する鷹が描かれている。「王はホルス神の化身である」とされた初期王朝の思想を反映する。セレクと呼ばれる枠で囲まれている。 | |||
二女神名 (ネブティ名) |
なし | 第一王朝 セメルケト |
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下エジプトの守護女神で蛇の姿をとるウアジェトと、上エジプトの守護女神でハゲワシの姿をとるネクベトを並べたシンボルがつけられる名前。二柱の女神を並べるため「二女神名」ともいう。 | |||
黄金のホルス名 | なし | ||
金を意味するヒエログリフの上に鷹がとまるアイコンがつく称号。「黄金」は元々、太陽の光に照らされた空を意味していたのではないかと推測されているが、プトレマイオス王朝時代には、黄金の町オンボスの神セトがホルスに屈服させられたことを意味するのだと解釈しなおされた。初期には、ホルス名とともにセレクの中に一緒に書かれていた。 | |||
上下エジプト王名(即位名、ネスウト・ビティ名) | カルトゥーシュ (「永遠」を意味する文字) |
第一王朝 デン |
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下エジプトのシンボルであるスゲ(ネスゥ)と、上エジプトのシンボルであるミツバチ(ビティ)を組み合わせている。また別解釈として、神への奉仕者(ネスゥ)と人間の支配者(ビティ)という意味の語呂合わせというものもある。 | |||
サァ・ラー名 誕生名 ノーメン |
カルトゥーシュ (「永遠」を意味する文字) |
第五王朝 ニウセルラー |
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生まれた時から持っている王の本名のようなもの。ガチョウが「サァ」太陽が「ラー」と読み、サァ・ラー(太陽神ラーの息子)という意味になっている。「王は太陽神の息子である」とされた古王国時代の思想を反映する。 |
ホルス神
エジプトの神々の中で最も古く、最も偉大で、最も多様化した神。隼の頭を持ち太陽と月の両目を持つ。初期は、隼そのものの姿だったが時代とともに人間の姿(幼児から成人)をとるようになる。
古代エジプトでは非常に古くから、太陽と月は、ハヤブサの姿あるいは頭部を持つ天空神ホルスの両目(「ホルスの目」)だと考えられてきた。やがて二つの目は区別され、左目(「ウアジェト(ウジャト)の目」)は月の象徴、右目(「ラーの目」)は太陽の象徴とされた。
ネクベト
上エジプトの守護神であり下エジプトを守護するウアジェトと共にファラオの守護者、王権の象徴とされた。「ラーの目」といわれる。ラーは自らを崇め敬わない人間を滅ぼすため、自らの片目(右目とも左目とも)を雌ライオンの頭を持つ破壊の女神セクメトに作り変え地上に送り、人間界で殺戮のかぎりを尽くさせた。
ウアジェト
ウアジェトは、コブラの姿、あるいは、頭上にコブラをつけた女性の姿で描かれる、下エジプトの守護女神。信仰の中心地はブト。「ウアジェトの目」と言われ月の象徴。これは、ホルスが父オシリスの敵セトを討つ時に奪われた左目。「全てを見通す知恵」や「癒し・修復・再生」の象徴(シンボル)とされた。
ナルメル関連
ナルメルのパレット
ナルメルのパレットは、表裏両面上端にホルス名のナルメルが記されており表面(右画像)に下エジプト王冠を被った王が敵の死体を検分する様子が、裏面(左画像)に上エジプト王冠を被った王(ホルス神の化身として描かれている)が下エジプト王を征服する様が描かれています。
Narmer Palette
紀元前3200-3100年頃
サソリ王のメイスヘッド
第0王朝時代の上エジプトのファラオであったサソリ王スコルピオン2世。 考古学上ナルメルと同一人物であることが有力視されています。(サソリはセルケト女神を表しているといわれています。)
スコルピオン(サソリ)王のメイスヘッド」も「ナルメル王のパレット」も、ともにエジプトのヒエラコンポリスのホルス神殿から出土。
エジプト第2王朝(紀元前2890-2686年頃)
歴代王
ヘテプセケムイ→ラネブ→ニネチェル→ウェネグ→セネド→セト・ペルイブセン(セケムイブ)→セケムイブ・ペルエンマート→カセケム(カセケムイ)
首都はアピュドスからティニスへ。
初代「ヘテプセケメイ」は、先王カアの娘と結婚することでファラオの地位につきます。
第1王朝とはうって変わって記録資料が乏しくよくわかっていません。
王墓地も移動していることから、政治的に不安定であったことが推測されています。第2王朝には9人の王がおり、第6代 ペルイブセン の時代に何等かの混乱があり王名のホルス名がセト名に切り替わった時期があります。これも一時的なもので後にホルス名が復活しています。
エジプト古王国( 紀元前2686- 2185年前後)
都はメンフィス。王権の強大化に伴いピラミッドが盛んに造営されたので「ピラミッド時代」とも言われています。
エジプト第3王朝( 紀元前 2686-2613年)
ジェセル王のピラミッド
歴代王
サナクト→ジェセル→セケムケト→カーバー→フニ
初代「サナクト」は第2王朝のカセケムイの娘と結婚することでファラオの地位につきます。ヒエログリフ文書で王名を囲う枠カルトゥーシュが使われるようになり、その後古代エジプト文明の終焉まで使用され続ける事になります。
第2代ジェセルの時代になると、 シナイ半島の鉱物資源によって得た富を用いて勢力拡大に乗り出し、南方のアスワン付近まで進出。 王権確立が実を結び、神たるファラオに相応しい地位を手に入れつつありました。ジェセルはトト神(知恵と時の神)の神官イムホテプを宰相に登用し、ナイル川の渇水による飢饉の際、「クヌム神(ナイル川の水源の主)の神殿に土地を寄進すれば再びナイル川は氾濫する」等の助言を得ます。また、史上初のピラミッドとも言われるジェセル王のピラミッドをサッカラに建立させます。
イムホテプ
史上初のピラミッドとも言われるジェセル王のピラミッドを建立。建築家としてのみならず、内科医としても優れ、死後には「知恵、医術と魔法の神」として神格化され、ギリシャの医神アスクレーピオスと同一視された。イムホテプはメソポタミア出身という説がある。
エジプト第4王朝 (前2613年-前2498年)
奥から「クフ王のピラミッド」「カフラー王のピラミッド」「メンカウラー王のピラミッド」
歴代王
スネフェル→クフ→ジェドエフラー→カフラー→(バカ・バウエフラー)→メンカウラー→シェプスセスカフ→ジェドエフプタハ
第4王朝になるとマネトの記録も正確性が高まり、他にもヘロドトスやディオドロスによる記録など、資料が豊富になってきます。初代スネフェルはヌビアに侵攻し服属、シナイ半島方面へも外征し、国制の整備も進めました。第4王朝は第3王朝のピラミッド建造を引き継ぎ、大規模なピラミッドが多く建造されていき、形状も階段状の外観を持つピラミッドから、直線のラインを持つ真正ピラミッドへと変貌していきます。史上名高いギザの大ピラミッドが建造されたのがこの王朝の時代。建造者であるクフ、カフラー、メンカウラーの三王は現代最も著名な古代エジプト王であり、ヘロドトスのような古代の著作家も彼等について記録を残しています。これらのピラミッドの様式は、第3王朝時代に作られた宰相職に王子が就任し、王族を中心とした体系的な官僚機構が整えられた。この王朝の王達はまた、古代エジプトにおいても長く語り継がれ、中王国時代の文学作品にも主要な登場人物として登場します。
エジプト第5王朝 (紀元前2498-2345年)
歴代王
ウセルカフ→サフラー→ネフェルイルカラー→シェプセスカラー→ネフェルエフラー→ニウセルラー→メンカウホル→ジェドカラー→ウナス
国家機構も第4王朝時代よりも更に整備され、官僚機構は次第に王族を中心とするものではなくなり細分化された。上エジプト地方の行政効率化のために常時複数の宰相が複数の任地で任務を分担する体制が整えられました。
第4王朝で頂点に達した太陽神ラーへの信仰は、第5王朝頃から「ラーは王の実の父」という信仰に変化していきます。ピラミッドの重要性は薄れ、小規模になり、ラーを祀る太陽神殿の方が重要視されるようになります。(太陽神殿は全部で6つ作られたと記録されていますが、現存するのは2つだけ。)ヘリオポリスにある高い砂と聖なるベンベン石を模した聖所であり、また王の称号に「ラーの子」が加えられるなど、太陽神ラーに対する崇拝が進展しました。第8代「ジェドカラー」の時代には太陽神殿が築かなくなり埋葬地も変わります。最後の王「ウナス」のピラミッド内部には「ピラミッド・テキスト」という、王の来世における再生と復活を保証するいくつもの呪文がびっしり刻まれ、これは王を冥界の支配者オシリスと合一させることに重きを置くものとされました。それ以降、太陽信仰は衰退してオシリス信仰に移り変わっていきます。
後にアトゥムと習合し、ヘリオポリスでは、最も重要な神とされる。原始の海ヌンから生まれ、シューやテフヌト(もとは、アトゥムの子供)、バステトの父とされる。
大地の神ゲブを父に、天空の女神ヌトを母に持つ。二柱の間に生まれた四柱の神々の長兄であり、豊穣の女神イシス、戦いの神セト、葬祭の女神ネフティスは弟妹にあたる。配偶神はイシスであり、彼女との間に天空の神ホルスを成した。
ニウセルラー王の太陽神殿
ベンベン
ベンベンとは古代エジプトのヘリオポリス創世神話において、原初の水「ヌン」から最初に顔を出した、そして神が最初に降り立った、原初の丘のこと。大地の基。世界の始まりの地。ラーはその誕生の際にベンヌの姿をとり、原初の丘「ベンベン」の上にとまったとされます。ベンベンを模した四角錐の石造記念物を「ベンベン石」と呼び、 表面は鍍金され太陽の光に照らされると、あたかもそれ自身が光を発するかのように輝いたといいいます。「ピラミッド」や「オベリスク」の頂上に置かれ、ピラミッドの頂上を飾るキャップストーンは「ベンベネト」と呼ばれていました。
オベリスク
ベンベン石
エジプト第6王朝 (紀元前2345-2181年)
歴代王
テティ→ウセルカラー→ペピ1世→メルエンラー1世→ペピ2世→メルエンラー2世→ネチェルカラー
第6王朝は、定式化された小型ピラミッド及びその複合施設と、 冥界と復活の神オシリスに対する物が含まれる ピラミッド・テキストが書かれるようになります。ピラミッドも造られますが、石積の技術は明らかに低下していますし、ピラミッドの崩落の度合いはますます大きくなり、現存しているものはほとんどが瓦礫の山と化しています。 対外関係においては、極めて活発に活動し、採石、採銅、石材、木材を求めてシナイ半島やパレスチナ、ヌビア等に経済的、軍事的遠征が繰り返されていました。 この時期は役人が増加し、 各地のピラミッド都市の管理者などをその地の役人に任じたり、ピラミッド都市等の付属領地を褒賞として与える方策がとられるようになります。 有力な役人はこうした官職をいくつも兼任し、次第に王をも上回る勢力をもつものも生まれ、王族はこういった勢力と婚姻関係を持つ動きもありました。ペピ2世62年の長期に渡る在位の間に王の指導力や地方に対する統制力は著しく弱体化し、彼の死去する頃には第6王朝は有名無実のものとなっていました。
第一中間期(紀元前2180年頃~2040年頃)
第1中間期になると、中央のファラオのさまざまな特権は地方豪族(ノモスの長)に流れていき、やがてノモスの長は王を名のることになりエジプトは分断、各地で王朝が乱立し混乱期に突入します。 また、砂漠から遊牧民がたびたび侵入するようになり、デルタ地帯ではアジア系の侵入民に一時的に占拠されたようです。 やがて、古王国時代には小さな村落だったテーベに生まれた第11王朝が次第に勢力を伸ばし始め、その4代目の王がエジプトを再統一します。
エジプト 第7王朝、第8王朝(紀元前2180-2160年)
首都メンフィスの政権は存続し、王としての権威も一応は保たれたものの、地方分離の潮流は変わらなかったようです。混乱時であったため当時のメンフィス政権の歴代王名やその治績についてはっきり分かっていません。
エジプト 第9王朝、第10王朝(紀元前2160-2040年)
(9王朝王)
ケティ1世→ →ネフェルカラー7世→ケティ2世→セテト→ →メリ…→ジェド…→フ…→ →ウセル
(10王朝王)
メリハトホル→ネフェルカラー8世→ケティ3世→メリカラー
ヘラクレオポリスの州侯「ケティ1世」が上下エジプト全域の支配権を手にして成り立った。首都はヘラクレオポリス。 このヘラクレオポリスの政権を第9、第10王朝と呼んでいます。 南方のテーベに成立した第11王朝と1世紀前後に渡ってエジプトの覇権を巡って争い、最後は第11王朝のメンチュヘテプ2世によって滅ぼされます。
第1中間期は混乱期のため、古王国時代のピラミッドや太陽神殿のような大型建造物の出土は少ない傾向です。この時代は、オシリス信仰の「人は死ねば誰もがオシリス神となり、復活して来世を迎える」という王やその周辺の臣下に限られていた復活と再生の権利が一挙に大衆化しました。
エジプト中王国( 紀元前2040年-17世紀頃)
都はテーベ。官僚制度を整え中央集権化を進める一方、教育が広まり多くの文学作品が作られました。建築では国力の増大に伴って巨大な王墓建築が復活した他、第1中間期に勢力を拡大した各地の州侯の墳墓も数多く確認されています。
エジプト 第11王朝(紀元前2134-1991年)
歴代王
アンテフ1世→アンテフ2世→アンテフ3世→メンチュヘテプ2世→メンチュヘテプ3世→(メンチュヘテプ4世)
上エジプトの取るに足らない一村落テーベでも、地元の州侯が力をつけ自立勢力を築いていき、これが第11王朝となります。テーベに興ったこの政権はヘラクレオポリス侯等、周囲の対立する政権を徐々に圧倒し、上エジプトの過半をその支配下に収めていきます。メンチュヘテプ2世が即位すると、国境地帯で起きた反乱を切っ掛けに第10王朝に攻め入り、長い闘いの末にこれを降してエジプトを再び統一しエジプト中王国が始まります。。メンチュヘテプ2世の死後間もなく、政権は第12王朝に移ります。
メンチュヘテプ2世
メンチュヘテプ2世の葬祭殿
現在デル・エル・バハリとよばれる断崖に囲まれた窪地に建設され、メンチュヘテプ2世に仕えた寵臣達もその周囲に葬られた。
エジプト 第12王朝(紀元前1991-1782年))
(歴代王)
アメンエムハト1世→センウセレト1世→アメンエムハト2世→センウセレト2世→センウセレト3世→アメンエムハト3世→アメンエムハト4世→セベクネフェル
アメンエムハト1世により第12王朝が開かれた。彼は第11王朝の宰相アメンエムハトであり、王位を簒奪したと一般に考えられている。アメンエムハト1世は即位直後に軍隊を率いて反対派の州侯やヌビア人の抵抗勢力を鎮圧し、テーベからイチ・タウィ(正確な位置不明)へ遷都します。 彼は第11王朝の宰相アメンエムハトと同一であり、王位を簒奪したと一般に考えられています。 第12王朝は政権を安定させることに成功し官僚制を整備、ファイユーム地方での干拓事業によってこの地をエジプト有数の穀倉地帯とし、対外的にはシリアとの貿易を拡大させる一方、南のヌビアを征服して領土を拡大します。アメンエムハト3世の死後、第12王朝は急速に不安定になります。アメンエムハト4世が短期間で亡くなり女帝の セベクネフェルが即位しますが、女性のファラオは約1500年ぶりで特例なので後継者を巡る何らかの問題があったと思われています。
ヘリオポリスに残るセンウセルト1世像
ファイユームに残るアメンエムハト3世のピラミッド跡
エジプト 第13王朝(紀元前1782年-前17世紀)
第13王朝は王権が弱く、数多く知られている王達の在位中の治績はほとんど不明です。また、第13王朝の王達は同一の家系にも属していませんでしたが、国家機構は正常に運営されていたようです。後半には下エジプト地方で、アジア系と見られる首長達が独自の政権(第14、15王朝)を築きエジプトの統一は崩れていきます。
文字改革
初期王朝時代にはもうすでに文字による記録を持ち始めています。この文字は神聖文字(ヒエログリフ)といい、芸術的には優れたものでしたが、日常生活の記録にはとても面倒で使い物になりませんでした。神官文字(ヒエラティック)と呼ばれる文字体がこの時期に発明されます。また、第1中間期~新王国時代までの古エジプト語から、細かいニュアンスなどの表現が可能になった中エジプト語が用いられるようになり、文章語としてほぼ完成され多くの文学作品が開花します。
ヒエログリフ
ヒエラティック
文学作品
『シヌヘの物語』『ネフェルティの予言』『アメンエムハト1世の教訓』『ケミイトの書』『ドゥアケティの教訓』『難破した水夫の物語』『雄弁な農夫の物語』『ウェストカー・パピルスの物語』など
エジプト第2中間期(紀元前1782- 1570年頃)
中王国時代もしだいに陰りを見せ、国内は乱れ地方の豪族は権力を握り始めます。中王国時代のはじめの頃から、じわじわとアジア系の人たちがエジプト国内に入り込んできていました。この人たちはアモリ人といわれる人たちで、最初は平和裏にエジプト社会に溶け込んできましたが、第2中間期に入ると、デルタ地帯の東部を支配するようになります。これらの異民族侵略者をヒクソスと呼び、王達による対ヒクソス戦争がはじまりますが闘いに敗れ、エジプトがはじめて異民族による支配を受ける屈辱の期間が約200年間続きます。
エジプト 第14王朝(紀元前1782年-前17世紀)
歴代王
セカエンラー → ネブウセルラー → カーウセルラー → アアヘテプラー→マアイブラー
この王朝が支配した領域は下エジプト(ナイル川デルタ地帯)あるいはそのごく一部であったと推定されています。その歴史について残る記録は極めて少なく、全体像はよく分かっていません。
エジプト 第15王朝(紀元前1663年-1555年頃)
歴代王
サイテス → ブノン → パクナシ → スターン→アフォフィス→アルクレス
いわゆるヒクソス(ヘカウ・カスウト「異国の支配者達」の意)と呼ばれる異民族によって王朝が成立する時代です。ヒクソスによる支配権確立の経緯については1500年後のマネトによる記録しかありません。
「トゥティマイオスの代に、原因は不明であるが、疾風の神がわれわれを打ちのめした。そして、不意に東方から、正体不明の闖入者が威風堂々とわが国土に進行して来た。彼らは、圧倒的な勢力を以て、それを簒奪し、国土の首長たちを征服し、町々を無残に焼き払い、神々の神殿を大地に倒壊した。また、同胞に対する扱いは、ことごとく残忍をきわめ、殺されたり、妻子を奴隷にされたりした。最後に彼等は、サリティスという名の王を1人、指名した。彼は、メンフィスに拠って上下エジプトに貢納を課し、最重要地点には守備隊を常駐させた。」
マネト『エジプト史(AIGUPTIAKA)』
エジプトはそれまで平和裏に暮らしてきたため軍事力は軟弱でした。一方ヒクソスはエジプトに、馬や戦車、複合弓などといった最新の殺傷力と機動力を持った武器や軍事技術を伝えることになります。しかし、ヒクソスの王たちは、自分たちより圧倒的に進んでいるエジプト文化に同化しようと努め、ファラオを名乗り歴代の王朝を継承します。
第15王朝はメンフィスまでを占領した後、アヴァリスを拠点にパレスチナからナイル川デルタ東部までの地域を直轄支配下に置いてエジプトを支配します。行政機構は中王国時代に形成された官僚組織を引き継いだと考えられ、エジプト人官僚が多く実務に携わっていたようです。テーベに成立していた第16王朝、第17王朝もまたヒクソスの権威を一時的には承認していたと考えられています。
エジプト 第16王朝(紀元前17世紀-16世紀頃)
第16王朝という名称は後代の歴史家マネトーの記述によるもので、その実態については、ヒクソスの諸侯を寄せ勢力か第13王朝の残存勢力であるとする2うの説があります。第16王朝についてまとまった歴史記録はほとんど残されていません。テーベの第17王朝が勢力を伸ばし第15王朝を滅ぼすと、これらの諸侯の領土もテーベ政権の支配下に入ります。
エジプト 第17王朝(紀元前1663-1570年頃)
古代エジプト人も当初は第15王朝に対し臣従していましたが、テーベで力を蓄えてきた第17王朝もやがて異民族追放を大義名分として第15王朝と戦い、これを滅ぼしてエジプトを統一します。これを以って第2中間期の終焉、新王国時代の始まりとされます。ファラオたちは国境を越えアジアへと進撃し「世界帝国」へと変貌を遂げていきます。
北部がヒクソス第15王朝、南部がテーベ第17王朝
エジプト新王国(紀元前1570-1070年頃)
エジプト新王国は国外へも領土を広げ、オリエント世界とも覇権を争い古代エジプト文明が最も栄えた時代。この時期建てられた無数の記念建造物、文化遺産は現在に至ってもエジプトに数多く残されています。
エジプト 第18王朝(紀元前1570-1293年頃)
(歴代王)
イアフメス1世 → アメンヘテプ1世 → トトメス1世 → トトメス2世 → ハトシェプスト → トトメス3世 → アメンヘテプ2世 → トトメス4世→ アメンヘテプ3世 → アメンヘテプ4世→ スメンクカーラー → トゥトアンクアメン → アイ → ホルエムヘブ
テーベで興った第17王朝の、セケンエンラー、カーメス、そしてイアフメス1世の三代に渡る戦いの末にヒクソス王朝を駆逐し、エジプトを再統一します。第17王朝と第18王朝は連続した政権ですが、イアフメス1世以降は第18王朝とするのが慣例となっています。エジプトの再統一による国力増大によって数々の大規模建築が残され、ヌビア、シリア地方に勢力を拡大し、オリエント世界に覇を唱えていくことになります。
第18王朝の王家はアメン神官団と密接なかかわりを持つようになります。エジプトの国家神であるアメン・ラーは対外遠征の勝利をもたらす神として崇められ、遠征のたびにアメン信仰の中枢カルナック神殿に膨大な戦利品が寄進され アメン神官団 が強大化していくきっかけとなります。
アメン神官団の勢力があまりに拡大を続けたために、王家と神官勢力に緊張がはしります。アメンヘテプ3世の時、 アメン神官団 の力を抑えるためアメン神官団に対する人事的介入が進められ、結果国内における自分の地位を確固たるものとし、建築活動、対外交渉において大きな成果をあげ第18王朝の最盛期を築いていきます。
アメンヘテプ4世は 即位後まもなく、アメン大神殿(カルナック神殿)の東側にアテン神殿を建設するという決定を下し、アテン神を唯一の神とする宗教改革を実行します。(アマルナ革命)治世第6年目までには自分の誕生名(ラーの子名)をアクエンアテンに改称し、アメン神信仰と決別しますが、アメン神団の抵抗が激しく、疫病などの蔓延もあり、最終的に失敗に終わります。
アメンヘテプ4世
アメン神
古代エジプトの太陽神。アモン、アムンと表記されることもある。その名は「隠れた者」を意味する。中王国時代第11王朝のメンチュヘテプ2世がテーベを首都としてエジプトを再統一して以来、末期王朝時代の第30王朝までの1,700年余りにわたり、ラー神と一体化。「アメン=ラー」としてエジプトの歴史・文明の中心に位置し、エジプトの神々の主とされた。エジプト最大の神殿であるカルナック神殿に祭られており、神殿の大列柱室などに見られる数々の壁画には、2枚の羽を冠した人物像として刻み込まれている。
アテン神
アテン神
アメンホテプ4世と妻のネフェルティティ
中央がアテン神
カルナック神殿
アメン大神殿複合体
アテン神殿
アクエンアテン死後破壊
復元されたアテン神殿
アメンホテプ4世アクエンアテンが失意のうちに亡くなった後、その息子もすぐ亡くなり、 トゥトアンクアテン がわずか9歳で即位します。政治的実権は宰相のアイと将軍ホルエムヘブが握ることになり、この両名の主導の下、アテン神信仰は廃され伝統的なアメン神を中心とした神々への信仰復活が行われました。 このトゥトアンクアテン王はトゥトアンクアメン(「アメン神の生ける似姿」、ツタンカーメン)に、王妃の名もアンケセンアメンと改められます。
ツタンカーメンの墓がある王家の谷
しかし、トゥトアンクアメン王が後継者を残さないまま治世9年で死亡してしまったため王位継承問題が発生。その後は、 トゥトアンクアメンの宰相であったアイが トゥトアンクアメン の妃と婚姻する形で王位を継承。しかし、老齢であったため4年後に死去し将軍ホルエムヘブがアイ王の娘と結婚して王家との血縁を確保します。ホルエムヘブは30年近く統治したものの、嗣子がなかったため王の親しい友人であり有力者であった宰相ラムセスが王位継承者に選ばれ(ラムセス1世)以後は慣例的に第19王朝に継がれていきます。
エジプト 第19王朝(紀元前1293-1185年頃)
(歴代王)
ラムセス1世 → セティ1世 → ラムセス2世 → メルエンプタハ → アメンメス → セティ2世 → サプタハ → シプタハ
新王国時代の古代エジプト王朝。第18王朝時代の繁栄を引き継ぎ、古代エジプト最大のファラオとも言われるラムセス2世を輩出し、エジプトがオリエント最大の国家の一つとして栄えた時代です。ラムセス2世の治世初期は、対外遠征が熱心に行われていました。シリア・パレスチナ方面は最も注意が向けられた地方で、シリアで勢力を拡張するヒッタイトに対するために、かつてヒクソス(第15王朝)が拠点を置いた下エジプト東部の都市アヴァリスを元に、ペル・ラムセス(ラムセス市)を建設し、アジア方面への遠征のための軍事拠点とします。
また、ラムセス2世は、エジプト史上最大の建築活動を行った王であり、父が中途でやり残したいくつかの神殿の建設を引き継ぎ アブ・シンベル大神殿のような大規模建築を残しています。 ラムセス2世 政権は62年と長く、跡を継いだメルエンプタハが即位したときには既に老齢でした。メルエンプタハが死ぬと第19王朝の王位をめぐって混乱が起きやがて途絶えたていきます。
赤:ヒッタイト王国 青:第19王朝
岩壁を掘削して造られた建造物としては世界最大のもので、神殿入り口には4体の座像が立てられ、いずれも高さ20メートル以上の大きさを持っている。
アブ・シンベル大神殿
エジプト 第20王朝(紀元前1185 – 1070年)
(歴代王)
セトナクト→ラムセス3世 → ラムセス4世 → ラムセス5世 → ラムセス6世 → ラムセス7世 → ラムセス8世 → ラムセス9世 → ラムセス10世 → ラムセス11世
第19王朝では王位継承に関する王朝末期の混乱が起き、女王タウセルトの治世を最後に終焉を迎えました。数ヶ月程度の空位期間を経てセトナクトが王位を獲得し、第20王朝が始まります。この王朝から新王国の繁栄が終わりを告げ、古代エジプトが衰退し始めていくことになります。ほとんどの王がラムセスと言う名を持っていることからラムセス王朝と呼ばれることもあります。
ラムセス3世は「最後の偉大な王」とも呼ばれますが、ラムセス2世の時代のように積極的に遠征を行う余裕はなく、ヒッタイト、リビュア人、謎の多民族戦闘集団「海の民」の侵入を阻止し、外敵の侵入を阻止することで手いっぱいでした。脅威を取り払った後は国内も比較的安定し、テーベのアメン神殿に対する寄進の比重を高めていきます。当初は王国と神官勢力も協調的であったものの、紀元前1080年頃には、テーベを中心にアメン大司祭国家と呼ばれる勢力に成長し、ファラオとエジプト国内を二分するまでになっていきます。ラムセス3世の多くの努力にも関わらず、その治世末期には史上初のストライキを招くなど内政面の問題が膨らんでいました。やがて、ラムセス3世の妃の一人ティイが息子を王位につけるために ラムセス3世を暗殺。その後首謀者は死刑となり、 以後の即位した王も次々と入れ替わり王権が衰退していきます。最後の王となるラムセス11世が即位した時、既にエジプトはオリエントの大国としての実態も面目も喪失しつつあり、その治世の間にエジプトの統一は失われてしまうことになります。
ラムセス3世のミイラ
海の民と戦うラムセス3世
エジプト末期王朝時代(紀元前1069年頃~紀元前332年)
アクティウムの海戦
第20王朝のラメセス3世がかろうじて「海の民」の侵略を撃退したものの、第21王朝以降はアメン神殿の勢力が強大化し、やがてテーベを中心として独立、さらに内紛によってリビア人による第22、23、24王朝と分裂してお互いが勢力圏を争っていきます。そんななか、南方の新勢力ヌビア出身のクシュ人が第25王朝として、これらの勢力をすべて支配下におさめ一時統一がなされます。しかし、紀元前7世紀の前半には強大帝国アッシリア軍がくりかえし侵入し、エジプトが支配下におかれます。その後、第26王朝のもとで一時エジプト人の独立が回復したものの、紀元前525年にはアケメネス朝によって征服され服属。さらに紀元前332年にはアレクサンドロス3世の征服を受け、実質的な最後の王となったクレオパトラ7世はアクティウムの海戦での敗北後、自殺に追い込まれ、ここに古代エジプト王国の歴史はその幕を閉じることになります。
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