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メソポタミアの場所
メソポタミアは、現在のイラクのティグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野を指します。
メソポタミア南部はかつてバビロニアと呼ばれ、バビロニアの北部をアッカド、南部をシュメールと呼んでいました。
先史文明(紀元前6500~4000年頃)
メソポタミアは4大文明の一つメソポタミア文明発祥地として有名な地域です。
歴史年表に残るメソポタミア文明以前にもすでに北部地方では、先史文化が誕生していました。紀元前6500年から最も古いジャルモ期を経て紀元前6000年~紀元前4300年にはハッスーナ、サーマッラー、ハラフ文化が誕生。紀元前5300~4000年頃にはメソポタミア南部シュメールにウバイド人が登場しウバイド文化が形成、後に登場するシュメール人によって引き継がれてシュメール文明として成長しさらに拡大してメソポタミア文明として発展していきます。
紀元前6500~6000年頃 ジャルモ期
農耕遺跡ジャルモ
ジャルモ期はイラク最古の文化期。
イラク北東部にあるザグロス山脈のオークとビスタチオ森林地帯から世界最古の初期農耕村落の遺跡ジャルモ遺跡が見つかっています。1948年ブレイドウッドによって当初は世界最古の農耕集落として大きな注目を集めました。(現在は トルコのチャタル・ヒュユクやパレスチナのイェリコ、シリアのアブ・フレイラなどさらに古い時代のものも発見され現在では西アジア地域における農耕の起源は、今からおよそ1万1000年前頃~1万年前頃と考えられています。
この時期は牧畜(牛、羊、ヤギ、豚)と農耕(小麦、麦類栽培)を主体とした生活が行われていたようです。この頃の農耕は、灌漑ではなく天水農業がおこなわれていました。
ジャルモ期以後メソポタミアの先史文化は、紀元前6000年から紀元前5500年ごろのハッスーナ期、紀元前5600年ごろから紀元前5000年ごろにかけてのサーマッラー期、そして紀元前5500年ごろから紀元前4300年ごろにかけてのハラフ期3つの文化にわけられます。
紀元前6000~5500年頃 ハッスーナ文化
北イラクのハッスナHassuna遺跡を標準とした、ジャルモ期から一歩進んだ初期農耕文化。
乳白色の化粧土の上に,赤色,黒褐色の彩文,刻線文,あるいは両者を併用して,平行斜線,斜格子,ジグザグ文などにより種々の幾何学文を施した彩文土器(彩陶),刻文土器が発見されています。
ハッスーナ赤器ボウル、紀元前5500年頃
切り込みと塗装の装飾が施された陶器の破片。テルハッスーナから、紀元前6500年から6000年。
この時期の典型的な女神像
紀元前5600~5000年頃 サーマッラー 文化
サーマッラーはバグダードの北西90km,ティグリス川東岸にあるイスラム期の都市遺跡。都市跡の地下の墓から特徴的な彩文土器が発見され,メソポタミア先史時代文化におけるサーマッラー期の標式遺跡とされました。ヤギ,鳥,魚などの動物と人間を幾何学文のなかに入れて,皿や浅鉢の底を中心とする一つの構図にまとめあげた彩文土器が特徴です。
腕を組んだ女神像も出現
紀元前5500~4300年頃 ハラフ文化
ハラフ文化はシリアのトルコ国境近くのハーブ―ル川沿いにあるテル・ハラフ遺跡を標式とする北部メソポタミアの先史時代文化です。 遺跡の主体は城壁をめぐらした古代都市グザナGuzanaで,アラム王国王宮殿跡の調査に関連して深く掘り下げたとき,新型式の多数の彩文土器が出土したことから,のちにハラフ式土器と命名されました。 ハラフ文化は、紀元前5000年頃にメソポタミア南部から広がったウバイド文化に継承され、テル・ハラフは長い間放棄されました。
ハラフ式の陶器(土器)はメソポタミア北部の広い地域、アナトリアの各地で発見されており、ハラフ文化の広がりがうかがわれます。また、半焼きの粘土や石で小さな女性像が作られたほか、粘土に押すための石でできた印章なども作っていました。
テル・ハラフから発見された最も有名で特徴的な陶器は「ハラフ式彩文土器」(ハラフ・ウェア)と呼ばれるもので、多くは二色以上の色で動物の文様や幾何学文様が塗られています。その他の様式の土器には、調理用の土器や表面を良く磨いた磨研土器などがあり、中には彩色されていないものもあります。
ウバイド期(紀元前5500~紀元前4000年頃) ウバイド人の登場
シュメール文明 ウバイド期
紀元前5500-4700(ウバイド1期:エリドゥ期):エリドゥを中心にペルシャ湾海岸部に集落。5つの都市があった。
紀元前4800-4500 (ウバイド2期:ハッジ・ムハンマド期):灌漑農業が始まり広まる
紀元前4500-4000(ウバイド3,4期) :急速な都市化と交易網の進展
ウバイド文化は、メソポタミア最南部で突如現れたウバイド人によって発生した文化。
イラク南部ジーカール県のウル遺跡の西6キロメートルにあるテル・アル=ウバイドという遺丘(テル)で発見された遺跡がこの文化の代表しています。 テル・アル=ウバイド は南北500メートル、東西300メートル、地表から2メートルほど盛り上がった墳丘で、最上部には初期王朝時代のメソポタミア最初の神殿が建っていました。 灌漑農業の導入による農業の把握的な発展、車輪の導入、銅器時代といった高度化が進み後のシュメール文明へ引き継がれていきます。
この文明から、首長システムが導入により集権的な集落構造が現れはじめて平等が失われていきます。女系文化で経済や文化などを通じて平和的に広まっていったと考えられています。
ウバイド人は後にこの地を捨ててどこかへ消えていき謎とされています。
都市エリドゥ
最初の神殿
シュメール王位表では、人類最初の王権が成立したとされるシュメール神話に登場する都市。
ウルから南東方向に約10キロの距離にあります。
シュメール神話では、大洪水が起こる以前に5つの都市が建設されたとされ、このとき起こった洪水が旧約聖書に登場するノアの方舟と考えられています。また、ウル第3王朝期に巨大なジッグラッドがつくられ旧約聖書に登場するバベルの塔のオリジナルとも推測されています。
シュメールの神話によると、エリドゥは神エンキ(後のアッカド神話における神エアに相当)により建設されたという。また、シュメール王名表では人類最初の王権が成立した都市とされている。シュメール王名表の冒頭は、以下の言葉で始まる。
「天から王権が下されたとき、王権はエリドゥにあった。」
初期のエリドゥにおいて、エンキの寺院は、アプスーと呼ばれる淡水の水辺に位置していた。エアプス(「深きものの家」の意。エンキが水を司る神であることに関係する。)、またはエエングラ(「水の高僧の家の山」の意)と呼ばれていた。エンキの配偶神は、ニンキ、ニンフルサグ、ダムガルヌンナ、ウリアシュ(Uriash)、ダムキナなどと呼ばれる女神であった。その寺院は、エンキの寺院の近くに位置しており、エサギラ(「聖なる貴婦人の家」の意)と呼ばれていた。
紀元前5500-4700年(ウバイド1期:エリドゥ期)
この文化特有の土器は、黒や褐色で幾何学模様を彩色された、黄褐色や緑がかった色の彩色が特徴
紀元前4700-4200 年(ウバイド2期:ハッジ・ムハンマド期)
紀元前4500-4000年(ウバイド3,4期)
ウバイド4期(紀元前4500-4000年頃)の女神像
ウルで発見
調教師図のテラコッタスタンプ
紀元前4000年頃
画像参考:ubaid period
シュメール文明(紀元前4000年~2004年) ・・シュメール人統治
ウルク期(紀元前4000~3100年) シュメール人の登場
王権が天から降って、まずエリドゥにあった。エリドゥではアルリムが王となり、二万八千八百年統治した。アラルガル(Alalĝar)は三万六千年統治した。二王は六万四千八百年統治した。大洪水が地を洗い流したのち、王権が天から降り、それはまずキシュにあった。キシュは戦いで敗れ、王権はエアンナに移された。そこでは太陽神ウトゥ(英語版)の子、メスキアッガシェルが王と大祭司を兼ね、三百二十四年統治した。ウルクは戦いで敗れ、その王権はウルに移された。ウルではメスアンネパダが王となり、八十年統治した。四人の王が百七十七年統治した。ウルは戦いで敗れた。・・・・
シュメール王名表
紀元前3800年頃から気候の乾燥がはじまり、農業効率が低下することで紀元前3500年頃にウバイド人はメソポタミアを去っていきます。
ウバイド人が去った後メソポタミアにはシュメール人が最古の「都市文明ウルク」を造営、ウルクを中心としてこの地を支配し文明を発展させていきます。 古代都市ウルク(Uruk)は旧約聖書の創世記にはエレク(Erech、「私は行く」と云う意味)と記され、現在のイラク(Iraq)の国名由来になっています。
紀元前4000年~前3100年頃までの時代はウルクの名を取ってウルク期(ウルク文化)といいます。
シュメール人
シュメール人とは、系統不明の言語「シュメール語」を話す人達のことを指します。
宗教、学問、医療などの文化や技術において、多くの画期的な発明をした民族として知られており、楔形文字、青銅器、数字、暦の発明でメソポタミア文明発展の基礎造りを行っていきます。
もともとメソポタミアの原住民ではなく、どこからかメソポタミアへやってきて 農業の発展によって定住生活を開始、 多数の神殿(ジッグラッド)を中心とした都市国家をつくっていきます。それらの神殿からは、大きく彫の深い目、高い鼻、長いあごひげといった特徴をもつシュメール人と思われる信者の男子像が出土しています。
当初は、長老、民会が指導者の役割を担っていましたが、都市国家が発展するに従い国家の王が登場し、王を中心とした階級制度、中央集権体制に移行していきます。支配階級として神官や軍人、官僚がありましたが、大半を占めていたのが被支配階級である人民と奴隷でした。彼らは神がそれぞれの都市を所有すると信じており、王は神の代理者として神権政治を行うようになっていったのです。
シュメール人の生活は農耕と牧畜を営んでいましたが、この時期は灌漑農業がおこなわれ、大麦やヒヨコマメ、ヒラマメ、雑穀、ナツメヤシ、タマネギ、ニンニク、レタス、ニラ、辛子を栽培し、牛や羊、山羊、豚などの家畜を飼育していました。
シュメール人の社会では宗教や呪術などの神秘的な思想や、自然界に宿る様々な神々を守護神として崇めるアニミズムが根付いており、自然神を崇拝することで川の氾濫は鎮まり、豊作が約束されると信じていました。
一方、シューメール人はウバイド人とは違い闘争的で武力によって支配する性格をもっていたため、都市国家の武力紛争が活発化してくるようになります。そして、紀元前2330年頃に成立したウルク第3王朝によって、初めてシュメール人都市国家によるメソポタミア統一が果たされました。
紀元前2004年 、そのウルク第3王朝時代もエラム(ペルシャ)の侵攻によって崩壊し、エラム人によって王ははるか東方へ連行され、これをもってシュメール人の時代は幕を閉じます。
シュメール神話
シュメール人の宗教の間では、アヌンナキの創造神話が語り継がれていました。アヌンナキとは、シュメール神話に登場する神々の集団です。そして、このアヌンナキが人間を創造したとされています。
都市国家ウルク
都市国家にはウル、ウルク、ウンマ、エリドゥ、キシュ、シッパル、シュルッパク、ニップル、マリ、ラガシュ、ラルサがありますが、この時期中心であったのがウルク。
ウルク市は東西2つの神殿域をもつ構造をしており、神殿の名に基づいて東側を「エアンナ(Eanna)地区」、西側を「アヌ(Anu)地区」と呼んでいました。ウバイド期にそれぞれあった小さな集落がウルク期には合併し、エアンナ地区とアヌ地区へと成長したものとかんがえられています。
エアンナ地区はウルク期から金星によって象徴される女神イナンナに捧げられていたことが明らかです。当時、この女神は女神イナンナ以外に冥界の神イナンナ、朝のイナンナ(明けの明星)、暮れのイナンナ(宵の明星)といった4つの顔をもつ女神として崇拝されていました。そして、この女神が後のビーナス、イシス信仰の原点ともされています。
「ウルクの大杯」紀元前3200~3000年頃
エアンナ地区のイナンナ神殿で発見されたもので物語の浮彫彫刻が施された作品の中では現存する最も古い作品の一つ。本来は2つあり対になっていたと考えられています。
イナンナ神
メソポタミアの主たる女神の一柱であるイナンナ(後にアッカドのパンテオンにおいてイシュタルと呼ばれた)が立っており、彼女がイナンナであることはその背後にある2本の葦の束で示されている。葦束は女神イナンナの象徴であり、ウルクのエアンナ地区のイナンナ神殿を表していた。葦束の図像はやはりウルク古拙文字において「イナンナ」を表す文字となっている[10]。彼女は裸の姿で、果実と穀物の入れ物を捧げられている。儀式用の装束を纏った人物(恐らくは王「ルガル」、あるいは首長/神官)がそばに立ち、その後ろから行列が彼に向けて近づいている[10][1]。葦束の背後は神殿内を描写したものであり、二頭のヒツジ、ヒツジの背に置かれた台の上に乗っている二人の人物(神、あるいは神像であるとも考えられる)、ガゼルとライオンの形の容器、犠牲獣として奉納された牡牛の首、パンを盛った一対の高杯、一対の供物籠、一対の大杯などが描かれている[11]。ウルクの大杯の図像下段は豊穣の光景を、中段は収穫物の奉納を描いたものと思われ、上段は都市国家の王が豊穣を祈願または感謝する場面であると考えられる
ウルクの大杯
巨大なライオンとライオンの頭を持つ鷲の図像。(前4100年-前3000年)
ウルク期の円筒印象と印影。前3100年頃。
ウルク文字(ウルク 古拙文字 )
メソポタミアから世界最古の文字「楔形文字」が出現していることはよく知られていますが、実はそれ以前に、その原型となる文字がこの時期からウルク遺跡で誕生しています。それが「ウルク文字」あるいは「ウルク古拙(こせつ)文字」と呼ばれるものです。ウルクのイナンナ神殿遺跡地下深くから小型の粘土板が多数出土しており、これらには人間の頭、手、足、ヒツジなどの動物、魚、数字を表す文字記号などが刻まれ神殿奉納品の記録文書として考えられています。
ビールの登場
シュメール人は紀元前4000年頃にはビールを開発し飲んでいたようです。ただし、この時代のビールは濃厚であったため、ストローのようなものでろ過しながら飲んでいました。
ジェムデト・ナスル期(紀元前3100年~2900年)
ジェムデト・ナスル期 は都市国家が誕生したウルク期と王が誕生する初期王朝時代の変遷期にあたる時代。次第に交易が活発になり経済が発展していきます。これにより、巨大な建造物が建設され支配階級が生まれ中央集権化が進んでいきます。 都市または集落の中心となる建物の跡からは食糧の配給などが書かれた粘土板、円筒印章(円筒形の印章)が見つかっています。
ジュムデト・ナスル期の文字
ジェムデト・ナスル期になるとウルク文字も絵文字からシンプルかつ抽象的なデザインに変化し、さらに「楔形」の筆跡も現れてきます。
バビロニアではクドゥルkudurruと呼ばれる石彫品が作られるようになりますが、その原点ともされる石彫刻(紀元前3100-2700)
ジェムデト・ナスル古墳からの出土品
初期王朝時代(紀元前2900-2350年)・・・群雄割拠時代
前2900年頃から前2350年頃までの初期王朝時代、シュメールではキシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ラガシュ、ウルク、ウルのような有力な都市国家を形成され多くの王朝が存在し群雄割拠の覇権をかけた争いが本格化します。
また、この時期から青銅器が開発製造され、世界へと広がっていくことになります。
シュメール王名表の説話によれば、紀元前2900年ごろ伝説的な大洪水(ノアの方舟伝説のモデルとなった)の後、最初に王権が降りたとされる都市がキシュ。 紀元前2800年頃のキシュ第一王朝の エンメバラゲシ は考古学的にもその実在が確認されている最古の王でもあります。紀元前2800年頃にはキシュが一時エラム人に支配された時期もありますが3代にわたってシュメールを支配していたとされています。紀元前2700年頃になると、シュメール下流の都市が繁栄しキシュは衰退していきます。
シュメール人の軍隊は、ほとんどが歩兵で構成されていました。軽装兵は斧、短剣、槍を運搬し、正規兵はさらに兜、革製のキルトなどの防具を着用し、古代ギリシャでも行われていたファランクスを編成していたことで知られています。
各都市国家の特徴
都市名 | 特徴 |
エリドゥ |
都市神エア(エンキ)。シュメール王名表では人類最初の王権が成立した都市とされている。紀元前5000年ごろ最初期の村落が形成され、紀元前2050年までに都市は衰退した。 |
ウルク | イラクの地名の元となった最初にできた都市。最高神アヌ(Anu),女神イナンナ(エレキシュガル)崇拝の地。2900年頃は世界最大都市で指導的役割を果たした。ギルガメシュ叙事詩、楔形文字などで知られる。 |
シッパル | 太陽神ウトゥ(シュマシュ)を守護神とする。大洪水以前の時代に天から王権が降りた都市の1つ。アッカドのシャマシュにシュメールのウトゥが取り込まれていく信仰過程で、性別が反転し男神に変化していった |
キシュ | 守護神は戦いを司る男性神ザババ。伝説的な大洪水の後、最初に王権が降りたとされる都市がキシュ。実在した最古の王エンメバラゲシが統治。紀元前3千年紀に入るとシュメール人やセム人達にとって特別な地位を持った都市として歴史に登場する。 |
ウル | 月神ナンナ(シン)が守護神の都市。覇権争いの有力候補でウル第三王朝時シュメールを支配。 |
ニップル | 嵐の神エンリル神崇拝の中心地であり、その宗教的重要性のために古代の王たちによって争奪が繰り返された。 |
シュルッパク | 都市神は穀物と大気の女神ニンリル(スドゥ)。大洪水以前の時代において最後に「王権」が天から降りた都市とされる。 |
ラガシュ | ラガシュ。都市神はニンギルス。シュメール初期王朝時代に繁栄し、現代にメソポタミア最大級の都市遺跡を残している。 |
ウンマ | 都市神はシャラ。ウル第3王朝の下で、ウンマは重要な地方的中心となった。 |
都市国家キシュ
キシュ廃墟跡
世界最初に実在する王エンメバラゲシが統治した王朝をキシュ第一王朝と呼び、ここではシュメール語とセム語を話す人が混在していた地域とされています。後にエラム人の支配を受けた後、エラム人を追放し キシュ第2王朝が 成立します。その後はウルクによって破壊を受けますが伝説的な世界最初の女性指導者とされる女王ク・バウ(クババ)によって復活。 キシュ第4王朝まで 王朝が復活しますが、第4王朝の王ウル・ザババが後のアッカド帝国を築く家臣であったサルゴンに倒され王朝が途絶えます。後にキシュ王(Lugal Kish.KI)という称号が覇権的性格を持った王の称号として用いられ世界の王の意味で使用されるようになっていきます。
女王ク・バウ
アッカド帝国時代 (紀元前2350-2113年)・・アッカド人メソポタミア統一
アッカドは、シュメールの北部に位置しメソポタミアのほぼ中央地域。「アッカド」とは、初代王サルゴンがつくった中心都市「アガデ」の別称で、セム語派のアッカド語を話すことからシュメール人からアッカド人と呼ばれていました。
サルゴンは王位を確立した後、 当時では特殊であった常備軍を有し、シュメール諸都市を統合していたウルク王ルガウザゲシを攻め捕虜とします。これによってシュメールとアッカドを統一し世界初の帝国を樹立します。次王リムシュはすぐに暗殺され、マニシュトゥシュが第3代の王となります。第4代の王、ナラム・シンは王号として「四方世界の王」を採用し、シリア、アナトリアへ積極的に軍事遠征を行いアッカド帝国最大版図を築きます。アッカド王朝以降、アッカドの文化はオリエント全域に影響を与え、アッカド語はこの地域の共通語として使用されるようになります。しかし、ナラム・シンの死後は、アッカド帝国の指導力は衰え各地の勢力が自立していき消滅していきます。
イナンナ(イシュタル)
ナラム・シン
ウル第3王朝(紀元前2112-2004年)・・・シューメール人による統一
ウル・ナンム王の即位(紀元前2047ー2030年頃)
アッカド帝国のナラム・シン王死後、グティ人、アムル人、エラム人の侵攻が目立ち 「誰が王で誰が王ではなかったか」と記録される混乱期に入ります。この混乱期にウルの将軍であったウル・ナンムが自立しウルの王となり紀元前2112年頃にウル第三王朝が成立します。
ウル・ナンムは世界最古と伝わる「ハンムラビ法典」より300年先行する「ウル・ナンム法典」を制定。後継者シュルギが統治体制を確立し高度に中央集権化された官僚制国家へと変革させます。5代目の王イッピ・シン在位中にエラム人の侵攻で2004年にウルは陥落。エラム人によって王ははるか東方へ連行され、これをもってウル第三王朝は滅亡しました。ウルは紀元前2030年頃には 人口65,000人(全世界人口の0.1パーセント)で世界最大と推定されています。
都市国家ウル
ウルのジッグラッド
ウルはユーフラテス川南岸にあり、現在は内陸部に位置する都市ですが、かつては海面が現在より高かったためペルシャ湾に注ぐ河口そばに位置した港都市でした。ウルは紀元前3800年頃に建造され紀元前2600年頃に都市国家として登場してきます。ウル(UNUG)の守護神は月神ナンナ(シン)でUNUGは「ナンナの住まう所」を意味します。
ペルシャ湾の主要な貿易港であったことから、メソポタミアに入る世界の金や銀のような貴金属、ラピスラズリやカーネリアンのような宝石といった交易品の多くを支配し経済的にも富んだ都市国家でした。そのためウルはシュメールの覇権を争う都市であり、メソポタミアにおけるシュメールおよびアッカドの主たる中心都市であったことが明らかになっています。ウルは旧約聖書でユダヤ教、キリスト教、イスラム教の父祖とされるアブラハムの生誕地としても考えられており、アブラハムは紀元前2000年頃に生きていたと考えられています。また、この地の初期層は洪水による土壌堆積物で覆われており、『旧約聖書』「創世記」および『ギルガメシュ叙事詩』に描かれた大洪水の証拠であると解釈されています。繁栄を誇ったウル市も紀元前530年頃、ペルシア人(ハカーマニシュ朝)の支配下に入った後には衰退を始め、前5世紀初頭には人住んでいなかったとされています。
左図:ウルの航空写真
上図:アブラハムの家
ウル第3王朝時代の女神像
古バビロニア時代(紀元前2004-1595年頃)・・アムル人統治
イシン・ラルサ時代(紀元前2004ー1759年頃)
ウル第3王朝が滅亡後、南メソポタミアではセム人系のアムル人の王朝が多く建国されていき群雄割拠時代に突入します。この時期は特に中部のイシン、南部のラルサが強国で、この2強国を中心とした分裂する状態が続き、この時代を「イシン・ラルサ時代」といいます。同じくアムル人系であるバビロンを都とする古バビロニア王国(バビロン第1王朝)もこの頃建国、さらに、北メソポタミアでアッシリアが勃興しやがて脅威勢力に成長していきます。18世紀になると統合の動きが強まり、1794年にイシンがラルサによって滅ぼされます。
この時代はアムル人での統治でありながら、諸王は シュメールの後継者であることを主張し、アムル人でありながら筆記はシュメール語を使用しアムル語はされていませんでした。またシュメールの「ウル・ナンム法典」を模し、イシン王朝5代の王リピット・イシュタルはシュメール語による「リピット・イシュタル法典」を残しています。また、工ウル第3王朝の王のように自らを神格化する君主崇拝制度を採用し、宗教面においてもシュメールの都市神の地位が向上され、バビロンの都市神マルドゥクやエシュヌンナの都市神ティシュパク、そしてアッシリアの神格化された都市アッシュールなどが国土の統治権を有する新しい神として祀られていくことになります。
イナンナ(イシュタル)像
「バーニーの浮彫」
紀元前1800年 – 紀元前1750年頃
「イシュタルの甕(Ishtar vase)」に描かれた女神イシュタル(Ishtar)、翼を持ち神聖な角の帽子をかぶっている。紀元前二千年紀前半[
バビロン第1王朝時代(紀元前 1759 ー1595年頃)
ハンムラビ王時代のバビロン第1王朝
紀元前1894年頃、イシン・ラルサ時代は南メソポタミアの一地方都市でしかなかったバビロンに、アムル人の首長スム・アブム、またはスム・ラ・エルがこの都市を拠点としてバビロン第一王朝を開きます。第6代のハンムラビ王のもとでバビロンは強大化し、やがてイシンを倒したラルサと30年間にわたる戦争後、紀元前1759年にメソポタミアを統一します。ハンムラビは征服事業と並行して、戦乱で荒廃した運河網を整備拡充するとともに、ハンムラビ法典と呼ばれる法典碑を作らせたことでも有名です。
ハンムラビの死後は少しずつ王朝は衰えていき、紀元前1595年頃、現在のトルコで興った鉄の武器を持ったヒッタイトの遠征によって古バビロニアは滅亡します。
マルドゥク
バビロンの都市神でバビロニアの国家神。後にエンリルに代わって神々の指導者となる。名は「太陽の雄の子牛」という意味を持つ。
王と太陽神シャマシュとの王権叙任
ハンムラビ法典が記録された石棒
乳を与える母(古バビロン時代)
中期バビロニア時代
カッシート(バビロン第三)王朝時代(紀元前1550~1155年)
「紀元前1400年ごろのオリエント世界」
ヒッタイトの遠征は一時的なものであったため、滅亡したバビロン第一王朝後は混乱。その後バビロニアを統治したのは民族系統不明のカッシート人でした。1550年頃バビロンを都に国を建てシュメール以来のメソポタミア文明を継承したためバビロン第三王朝ともいいます。紀元前1475年になると、海の国第一王朝を滅ぼしてバビロニアを統一します。 カッシート王朝はバビロニアの歴史上最も長く続いた王朝であり、当時エジプト、ヒッタイト、ミタンニ等と並ぶ大国として勢力を振るいます。
カッシート人は外来の勢力でありながらも、バビロニア文化を極めて好み、バビロニアの神々を祭る神殿を盛んに建築し、ほとんどの文章はバビロニア語(アッカド語)を用いるなどし、早い段階で現地に同化していきます。
神、女神を表した焼成煉瓦製の壁支え
(ウルクのイナンナ神殿の
壁の一部:カッシート時代)
イシン第ニ王朝時代(紀元前1157-1026年)
紀元前1200年頃、環東地中海を席巻する大規模な社会変動「前1200年のカタストロフ」が起き、オリエント一帯が動乱期に突入します。 紀元前1155年 イラン高原からエラム王国が侵攻しカッシートは滅亡します。カッシート朝を滅ぼしたエラム人は,そのままバビロニアにとどまらなかったため,当時ニップールと並んで重要な都市であったイシンの知事がバビロンの王となり新王朝(イシン第2王朝。前1157‐前1026)を開きます。ネブカドネザル1世時代にエラムからマルドゥク神像を奪還するなど最盛期を迎えるも短命に終わり、いくつかの王朝が乱立し長い混乱期に入ります。
アッシリア帝国(新アッシリア)時代(紀元前1000-612年年頃)
紀元前3000頃にメソポタミア北部アッシュールに都市国家を作っていたアッシリア人は、青銅器の原料になる錫をイラン高原から採取して中継貿易で栄えていきます。
紀元前1500年頃はミタンニに服属するもヒッタイト滅亡後は鉄器製造技術を継承して軍事力を強化し、紀元前900年には鉄製の戦車と騎兵からなる軍を整備し領土拡大に努めていきます。
バビロニアは、紀元前1000年期初頭の250年余りの期間はE王朝(バビロン第8王朝、前977年-前732年)と呼ばれてアッシリアとおよそ100年余りの間均衡していたものの、紀元前729年に支配下となります。
紀元前922年に建国したイスラエルもエジプトともにアッシリアに抵抗し、アッシリアの遠征軍によって紀元前722年北イスラエルが滅亡。(失われた十支族)ユダ王国は朝貢関係を続けながら独立を維持していきます。アッシリアはメソポタミアとエジプト、イスラエルからなる中東地域(オリエント)を統一しアッシリア帝国を築きます。
アッシェル神
アッシェルは、アッシリアで崇拝された最高神。バビロニアを征服後はバビロニア最高神(エンリル、マルドゥク)と融合、同一視されます。
新アッシリアの有翼射手の図像。右手をファラヴァハルの図像と同じように伸ばし、左手に輪の代わりに弓を持っている。前9世紀または前8世紀
ニムルドで発見された有翼円盤のレリーフ
アッシリア美術は、アッシリア王国全盛期の紀元前10世紀ごろにその特徴が確立されました。日干しレンガや焼成レンガを使った王宮の遺跡が、現在のイラクやシリアなどに残されています。
アッシュールバニパルの図書館
ギルガメシュ叙事詩
アッシュールバニパル王は紀元前668年からアッシリアを治めていた王で、「アッシリア最後の偉大な支配者」といわれています。また、教養に富み、文書の記録や収集に熱心であったと伝わります。この図書館は紀元前7世紀に、アッシリアの首都・ニネヴェのクユンジクの丘に建てられ、遺跡からは王室の記録や年代記、神話などが記録された粘土板が3万点以上見つかっています。資料を歴史・法律・科学・魔術・教義・伝説に分類した図書分類法の初期の例といわれています。世界最古の文学作品とされる「ギルガメシュ叙事詩」もこの遺跡から発掘されていています。
アッシリアレリーフ
アッシリアのレリーフは戦闘や狩猟、朝貢する人々の列など、王権や帝国の威厳を示すモチーフが多くあります。
新バビロニア(カルデア)時代(紀元前612年ー539年頃)
アッシリアで最大版図を築いたアッシュールバニパルの没後、アッシリアの政局は混乱に陥り短期間に何人もの王が交代する事態となった。この混乱に乗じて「海の国」の首長とされるカルデア人ナボポラッサルがバビロニアの支配権を掌握しアッシリアの支配から離脱します。彼が打ち立てた王朝は新バビロニア(バビロン第11王朝)、またはカルデア王国と呼びます。ナボポラッサルは鎮圧のために派遣されたアッシリアの軍勢をバビロニアから排除することに成功し、更に東方のメディア人と同盟を結んでアッシリア本国に攻撃をかけ、紀元前612年にはアッシリア首都ニネヴェを陥落させることに成功しメソポタミアを支配します。
跡を継いだネブカドネザル2世の時は、エジプト(第26王朝)シリアを支配下に置くことに成功。さらに紀元前597年にエルサレムを占領すると、ネブカドネザル2世はBC593とBC586の二度に渡ってパレスチナに遠征しユダ王国を滅ぼします。2度に渡った遠征でユダヤ人はバビロンに連行されたため、その受けた苦難を旧約聖書に書き残しします。(バビロン捕囚)
最後の王ナボニドゥスは月神シンの崇拝に没頭し、政治を顧みなかったともされています。
この頃、イラン高原ではキュロス2世が帝国を築きつつあり後にアケネメス朝ペルシャ帝国となります。
紀元前540年までにはエジプトを除くバビロニアの周辺諸国はアケメネス朝の支配下に落ち、翌年にはバビロンに入場しバビロニアはアケメネス朝の支配下となります。このときバビロンに捕らわれていたユダヤ人は解放されたため、旧約聖書にはキュロス大王は「解放者」として讃えられています。
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イシュタル門
ネブカドネザル2世は建築活動に熱心だったことが知られています。彼が残した建築遺構のなかでもバビロニアを代表する「イシュタル門」、バベルの塔のモデルとなったマルドゥク神殿 エ・テメン・アン・キ が有名です。
バビロンのイシュタル門
バビロンにあるレプリカ。ライオンのレリーフ
紀元前604–562年
紀元前1千年紀半ばネブカドネザル王が古代都市バビロニアの再建を命じた際、神殿の壁や、門扉、宮殿には、神話の中の守護の力を持つ神聖な野獣や動物が、極彩色の施釉レンガで描かれました。このライオンはメソポタミアの女神イシュタルの力を象徴するものであり、バビロニアの行列通りの両壁を飾った約120 頭のライオンのうちのひとつです。これらのライオンは、中でも新年にバビロニアの神々の像がイシュタル門から祝祭の行われる神殿まで運ばれる際、神聖な通りを守る役目を果たしました。
マルドゥク神殿エサギルのジッグラト跡
エ・テメン・アン・キ(「天と地の基礎となる建物」という意味)は、かつてシュメール人が建設の中断をしていたバビロンのマウドゥク神殿にあったジッグラッドを、新バビロニアのナポポラッサル王とネブカドネザル2世王が2代にわたり完成させたもの。旧約聖書の「創世記」11章にあらわれるバベルの塔のモデルになったとも伝えられています。
底面約91メートル×約91メートル、高さ約90 – 91メートル(高さは推定)の7層建てであり、各層が七曜を表し、1階が土星、2階が木星、3階が火星、4階が太陽、5階が金星、6階が水星、7階が月であった。これはバビロニアの天文学では、地球から遠い順に、「土星・木星・火星・太陽・金星・水星・月」と考えられていたことに基づく。各層には神室があり、頂上(7階)には神殿(至聖所)があったと推測される。
エ・テメン・アン・キ
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