D:インドの文化(メヘルガル期~グプタ朝 ヒンドゥ教確立まで)

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メヘルガル期(紀元前7000年 – 2600年)

パキスタンのインダス川流域西方パローチスタン丘陵地帯にあるメヘルガル遺跡は、紀元前7000-2600年に渡る南インドではインダス文明の発生よりも古い農耕と牧畜遺跡です。メヘンガル遺跡を中心に小麦・大麦の栽培、牛・羊・ヤギの飼育がおこなわれていました。インダス文明の信仰に結びつく瘤牛や菩提樹をはじめとする動植物文や、独特な幾何学文で飾られた彩文土器、豊穣を祈る女性土偶や、当時、身近だった動物の土製品等が作られました。メヘルガル期の紀元前7000-2600年はさらにⅠ~Ⅶ期に分けられており、紀元前3000年頃には大集落が形成され、その一つハラッパーがやがて初期インダス文明の形成へと繋がっていきます。

メヘルガルI期(紀元前7000年ー5500年)セラミック新石器時代

この頃は初期農業が行われ、小さな農業と牧畜の村でした。居住者は泥レンガでつくられた家に住み、小麦・大麦・ ナツメヤシ を栽培、牛・羊・ヤギを飼っていました。 狩猟動物には、ガゼル、沼鹿、ニルガイ、ブラックバックオナジャー、アクシスジカ、水牛、イノシシ、ゾウなどがあります。
多数の埋葬跡も見つかっており、副葬品として籠、石器、骨器、ビーズ、腕輪、ペンダントなどがあり、装飾品 として貝殻・ターコイズ・トルコ石、ラピスラズリや砂岩の装飾のほか女性や動物の像も見つかっています。

メヘルガルⅡ期 (紀元前5500年ー4800年) 新石器時代

農業技術もメヘルガルで確立され、90%の大麦は地元で栽培されたものでした。 天日干しレンガで作られた建物は大きな長方形で、対称的に小さな正方形または長方形のユニットに分割されていました。 生活面にも高度な技術のものが使われるようになり、陶器は連続したスラブ構造で窯で作られ、その場所には焼けた小石と大きな穀倉で満たされた円形の火の穴がありました。 さらにアフガニスタンで産出されたラピスラズリ製のビーズが発見されており、この時期には遠方と交易していたことが明らかになっています。

Ⅱ~Ⅲ期当たりの土器

メヘルガルⅢ期~Ⅳ期 (紀元前4800年ー3250年)

メヘルガルの銅器時代Ⅲまでに、建物は型でつくられたレンガで作られ、住居と倉庫などに分割された大きなスペースで構成されていました。工芸品も艶のあるファイヤンス焼きのビーズ、塗装されたテラコッタ像が登場し作り方も写実的になってきます。Ⅳ期になると、運河で結ばれた中小規模の集落に分割され、いくつかの集落には中庭のある家も存在するようになります。

人々はビーズ製造技術を応用し、ドリルを用いた虫歯の治療も行っていたこと埋葬された人骨から分かっています。光学顕微鏡による観察で穴が円錐形、円筒形、または台形など様々なタイプも確認されています。

虫歯の治療跡

紀元前3500-3000年頃の女神像と彩色土器

メヘルガル後期 (紀元前3250年ー2600年) 銅器ー青銅器初期時代

後期になってくると、フリントナッピング、日焼け、ビーズ生産の拡大といったクラフト活動やハイレベルな金属加工が行われていました。しかし、ハラッパ、モヘンジョダロ、コトディジなどインダス文明が繁栄し始めていくと次第に放棄されていきます。

紀元前3000年頃 椅子に座る女神

紀元前3000-2000年頃の女神像

紀元前2800-2600年

紀元前3000-2400年

紀元前2800-2600年 子供を抱く母
紀元前2600年頃に子供を抱く像がでてくる

紀元前3000-2500年頃

紀元前2200-2000年頃

参考:愛知県陶磁美術館広告

インダス文明(紀元前2600~1800年)

メヘルガル期のインダス川西部にあった遺跡群も時代が進むにつれて次第にインダス川、ガッガル・バークラー川流域へと文化の中心地が移動し4大文明の一つインダス文明へと発展していきます。インダス文明は最初に発見された遺跡ハラッパーにちなんでハラッパー文明とも呼ばれます。

インダス文明では鉄の使用は行われておらず、青銅器が使用されていました。工芸品ではビーズ作りが盛んで、高度な技術を要するマイクロビーズも製造され絹糸で連結された首飾りなどとしてメソポタミアへ輸出されていました。工芸素材としては、金属、動物の骨、ラピスラズリ、ガーネットといった鉱石、テラコッタなど使用されていました。 原石の採掘、工芸品の生産、流通などに専業の集団が従事し、工芸品はインダス文明の経済基盤の1つだったと考えられています。

ラピスラズリ

紀元前3300–2600年時点
メヘルガル期

紀元前2600–1900年時点
インダス文明期

遺跡群

インダス文明の規模はメソポタミア文明より規模は小さく、ジッグラッド、アクロポリスのような神殿や王宮のある国家都市は存在しません。また、王のような権力者の存在、戦の痕跡が見当たりません。
かわりに大沐浴場や火の祭壇、さらに「穀物倉」「列柱の間」「学問所」と呼ばれる大型で特殊な構造の建物が周塞囲まれた「城塞」遺跡が各地に存在するのがこの文明の特徴です。城塞の目的はよくわかっていませんが、防衛、洪水対策、人や物資の出入りの管理などに利用されたものと考えられています。
都市のタイプにも城塞と市街地が一体型、城塞と市街地が分離型があります。
 一体型: ロータル、ドーラビーラ
 分離型: モヘンジョダロ、ハラッパー、カーリバンガン

一体型:ドーラピーラ遺跡

モヘンジョダロ遺跡

モヘンジョ=ダーロは現地用語で「死の丘」を意味するインダス文明を代表する遺跡の一つ。かつては、 古い時代の死者が眠る墳丘として、地元民は恐れて近よらない禁忌の領域でした。
このタイプは城塞と市街地の分離型遺跡で、東が市街地、西が城塞が広がり、最大4万人程度住んでいたとされています。道路は直角に交差して碁盤の目のように整備され、 水道、汚水の排水システム、個人用の浴室、公衆浴場などがすでに存在していました。また、強力な階級制度と中央集権制度が存在していたようです。

インダス文明を代表する石の彫刻「神官王像」
紀元前2000–1900年頃

踊り子像

言語・印章

インダス文明の遺跡からは、文字らしきものを伴う印章が 5000 点近く出土しているものの、未だ解読されていません。一方で、インダス式紋章は文字ではないという説もあり、論争が続いている状況です。
印章は凍石製で、インダス文字の他、 サイ、象、虎 といった動物、さらには一角獣など架空の動物やインドの神「シヴァ神」のモデルと思われる神などが刻まれています。

インダス文字

プロト・シヴァproto-Shiva)の印章

紀元前2350-2000年頃 
モヘンジョ=ダーロ遺跡

The proto Shiva seal

The Symbolism Of The Meditating Yogi On Indus Seals

宗教

インダス文明と宗教の問題は、文字の未解読、実体的な資料や具体的証拠に乏しいためよくわかっていませんが、印章にみられるようにインドの宗教の原点ともなるアニミズム的な崇拝が行われていたようです。例えば、モヘンジョ=ダーロ、ドーラピーラでは「大浴場」とよばれる施設や下水道設備、さらには女性像やリンガムといった豊穣と再生を祈念するものが出土し「水」と関係の深いことから沐浴場と考えられています。 一方で、カーリバンガンやバナーワリー遺跡には、独特な「火の祭祀」を行っていたと思われる遺跡も発見されています。

カーリバンガン遺跡

参考:THE INDUS CIVILIZATION

ヴェーダ期(紀元前1700-500年) ・・・バラモン教の確立

インダス文明も紀元前2000年以降になると滅亡し現在は砂漠となっています。(滅亡原因については諸説ありよくわかっていません)後に訪れたのがヴェーダ時代と呼ばれるインド史において、バラモン教の経典「ヴェーダ」がつくられていく時代です。この時期は中央アジアからアーリア人が南下して先住民にとってかわっていく時代で、いくつかの勢力が発生することにより群雄割拠がはじまり文明の中心も東のガンジス川流域へと移っていきます。

前期ヴェーダ時代(紀元前1500-1000年)

紀元前1500年頃になると、アーリア人が中央アジア(現在のアフガニスタン)から南下し、現在のパキスタンあたりに移住したと考えられています。アーリア人および先住民はいくつかの部族に分かれ、やがて部族間の抗争が起こります。(十王戦争)最も軍事力で圧倒していたのがバラタ族とトリツ族。それに対抗するためプール族は他の9部族と連合し戦いを挑みますが敗北してしまいます。バラタ族はプール族や先住民と混血(クル族)、農耕技術を取り込みながら融合し支配階層を形成していきます。『リグ・ヴェーダ』の編纂はクル族の指導下で始まったと考えられ、鉄器を最初に用い始めた部族でもあると考えられています。

後期ヴェーダ時代(紀元前1000-500年)

紀元前1000年頃よりクル族は次第に領域をガンジス川流域へと移動し、その支配領域はクル国と呼ばれるようになります。 そして、この地に定着して本格的な農耕社会を形成し、徐々に商工業も発展させていきます。やがて諸勢力が台頭して十六大国が興亡を繰り広げる時代へと突入していきます。

十六大国のうち、とりわけマガダ国とコーサラ国が二大勢力として強勢。クル国はバラモン文化の中心地で後期ヴェーダもこの地方を中心に形成されていましたが、釈迦の時代には既に勢いを失い、紀元前4世紀頃にはナンダ朝のマガダ国に征服されます。十六大国のひとつに数えられたガンダーラは、紀元前6世紀後半にアケメネス朝のダレイオス1世のインド遠征 によって支配されるようになり、他のインドの国々から切り離されアフガニスタンの歴史を歩み始めていきます。

紀元前5世紀になると、4大ヴェーダが完成、祭祀「ブラーフマナ=バラモン」を最高位とするバラモン教が宗教として完成します。ガンジス川流域で諸国の抗争が続く中でバラモンが凋落すると、それに代わりクシャトリヤ(王族・士族)やヴァイシャ(庶民)が勢力を伸ばすようになります。こうした変化を背景にマハーヴィーラによってジャイナ教が、マッカリ・ゴーサーラによってアージーヴィカ教が、釈迦(シャカ、ガウタマ・シッダールタ)によって初期仏教などが同時期に誕生します。

ヴェーダ、バラモン教

紀元前 1500 年ごろ、古インド・アーリア語(サンスクリット語)の話者たちがインド入り、前3世紀頃までの約1000年以上にわたって、一大宗教思想文化を築き上げました。この時期に編纂された一連の宗教文書の総称を「ヴェーダ」といい バラモン教の経典となります。
成立年代順に『リグ−ヴェーダ』『サーマ−ヴェーダ』『ヤジュル−ヴェーダ』『アタルヴァ−ヴェーダ』の4つがあり、さらに各ヴェーダには『ブラーフマナ(梵 (ぼん) 書)』『アーラニヤカ(森林での祈禱書)』『ウパニシャッド(奥義書)』が作られました。
聖典群の名から「ヴェーダの宗教」、あるいは「ブラーフマナ」とよばれる祭官階級を中心とする宗教の意味で「ブラフマニズム」とよばれます。現代日本語では、「ブラーフマナ」という語の漢訳「婆羅門」のカタカナ表記「バラモン」を用いて「バラモン教」と呼称されます。
バラモン教は、階級制度である四姓制ヴァルナ(のちのカースト)を持ち、司祭階級バラモンが最上位で、クシャトリヤ(戦士・王族階級)、ヴァイシャ(庶民階級)、シュードラ(奴隷階級)によりなり、後のヒンドゥー教へとつながっていきます。

神々への賛歌『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神崇拝し、司祭階級が行う祭式を中心とする。そこでは人間がこの世で行った行為(カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。転生輪廻(サンサーラ)は、インドのバラモン教の思想である。この教えによれば「人間はこの世の生を終えた後は一切が無になるのではなく、人間のカルマ(行為、業)が次の世に次々と受け継がれる。この世のカルマが“因”となり、次の世で“果”を結ぶ。善因は善果、悪因は悪果となる。そして、あらゆる生物が六道〔①地獄道、②餓鬼道、③畜生道、④修羅道(闘争の世界)、⑤人間道、⑥天上道〕を生まれ変わり、死に変わって、転生し輪廻する。これを六道輪廻の宿命観という。何者もこの輪廻から逃れることはできない。それは車が庭を巡るがごとし」と唱える。

バラモン教

マウリア朝(紀元前317年 – 180年頃)・・・仏教信仰の広まり

十六大国のなかでも最も有力な2大国マガダ国とコーサラ国の抗争は、最終的にマガダ国ナンダ朝がコーサラ国を撃破することで決着します。しかしナンダ朝はシュードラ(カーストの中で最下位)出身であったことからバラモン教の知識人たちによって忌避されていました。こうした状況下にあって、マガダ国出身の青年チャンドラグプタがナンダ朝に反旗を翻して挙兵。紀元前317年頃に首都を占領して新王朝マウリア朝を成立させていきます。
マウリア朝の王で有名なのが3代目アシューカ王で、国内での反乱鎮圧、粛清を繰り返しながら統治体制を整えていきます。かつては従属国であったカリンガ国が強大な軍事力を有した独立勢力となり障害となっていました。紀元前259年カリンガ国への遠征を行います。アショーカ王は激戦の末カリンガ国を制圧したものの多大な犠牲を払ったことを悔い、それ以後拡張路線を終焉。仏教を深く信仰し、ダルマに基づいた統治を行うようになります。アショーカ王死後は王朝が分裂し衰退し500年にわたり諸王国が興亡をくりひろげます。マウリア朝崩壊後、仏教はインドに広く広まりますが、バラモン教は仏教に対して劣勢にたたされます。バラモン教は土着の神を取り入れ大衆の支持を得てヒンドゥー教となり復興していくことになります。

クシャーナ朝とガンダーラ美術

紀元前2世紀、匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民の月氏は、西北インド バクトリアに定着し大月氏と名乗ります。大月氏の支配下から、イラン系のクシャーナ族が自立し、クシャーナ朝を建国します。クシャーナ朝は都プルシャプラ(現在のパキスタンのペシャワール)を中心に栄え、カニシカ王の時代に最盛期を迎えます。その治世中にバクトリアのヘレニズム文化と仏教が融合したガンダーラ美術大乗仏教が興ります。仏教では当初偶像崇拝は行われていませんでしたが、仏像が初めて作られたのもこの頃からで、ガンダーラやマトゥラーで盛んに作られるようになります。クシャーナ朝は、3世紀にサーサーン朝の攻撃により衰退します。

中国ではクシャーナ朝が権力を握った後も、その王を大月氏王と呼び続けたことが『後漢書』に記されています。

月氏自此之後,最爲富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。
(クジュラ・カドフィセスのインド征服)以後、月氏は最も富み盛んとなった。諸国は彼をクシャーナ王と呼んでいる。漢では古い称号を用いて大月氏と呼んでいる。

ガンダーラ美術

1世紀頃から3世紀頃にかけて、ガンダーラ地方とタキシラで開花した仏教美術。クシャーナ朝はイラン系の民族が造った王朝であり、バクトリアから起こった国であったのでヘレニズムの影響を受け、ギリシア彫刻を模して仏像を造るようになります。ガンダーラはギリシア彫刻の影響を受けていますが、4世紀のグプタ朝時代になると次第にヘレニズムの影響を脱して、インド独自の様式であるグプタ様式となっていきます。ガンダーラの仏像はやがて中国に渡り、顔立ちや衣に漢民族の影響を受けながら、朝鮮半島を経て日本に伝わりました。

仏教の発展

釈迦が没したあと紀元前後に、小乗仏教(上座部仏教)大乗仏教に分裂します。(上座部仏教は保守派の自称で、小乗仏教は大乗仏教からの蔑称)小乗仏教(上座部仏教)は東南アジアやスリランカに広がり、大乗仏教は中国、朝鮮、日本へと伝わっていきます。

初期仏教(偶像崇拝禁止!)
→大乗仏教(中国⇒朝鮮(百済)⇒日本)
→ 小乗仏教(東南アジア、スリランカ)

地母神像

仏像

アトラス像

シュンガ朝(紀元前180年- 75年頃)

紀元前180年頃、マウリヤ朝最後の王ブリハドラタに仕えたプシャミトラ・シュンガは、ブリハドラタを暗殺して王位を奪い、シュンガ朝を興して北インドの広い領土を支配します。プシャミトラ はバラモンの宗教と文化を尊重。当時、南には新しい勢力が興り、西北からは異民族が侵入するなど不安定でした。

カーンバ朝(紀元前75-30年頃)

シュンガ朝の大臣でバラモン出身のバスデーバが,主君を殺して王朝を成立させます。カーンバ朝の領土は,マウリヤ帝国の中心部を継承したシュンガ朝の領土よりもさらに縮小。バスデーバ,ブーミミトラ,ナーラーヤナ,スシャルマンの4王が45年間統治したのち,アーンドラ朝に滅ぼされます。

サータバーハナ(アーンドラ)朝(紀元前2世紀~後3世紀)

参考

紀元前2世紀,マウリヤ朝衰退後ゴーダーバリー川上流に興り,カーンバ朝を滅ぼしデカン地方で初めて強力な王国を築いたのが南インドの王朝アーンドラ朝です。1世紀に北からサカ族が侵略したため一時衰えたものの、2世紀には東方に領土を拡大しデカン一帯をアラビア海からベンガル湾にいたるまで統一支配しました。しかし3世紀に入ると領域内の各地で新しい王朝が台頭したために滅亡します。この頃は、ローマ帝国など西方との季節風貿易で繁栄しインドからは綿織物や胡椒が輸出されていました。また、北インドのバラモン文化が南インドにもたらされ、仏教も広がっていきます。

アマラヴァティ・マーブル
仏陀を記念したもの

グプタ朝(4-6世紀)・・・ヒンドゥ教の確立

前180年にマウリヤ朝が滅亡して以来、インドは約500年の分裂状態が続きましたが、4世紀後半から5世紀にかけてグプタ朝がパータリプトラを都として北インドを統一します。 「インドのナポレオン」と呼ばれた チャンドラグプタ2世の時代に最盛期を迎え、官僚制度・軍事制度が整理され、サンスクリットが公用語に定められました。この時代は、インド古典文化の黄金時代とされています。また、 一時影響力を失いかけたバラモン教と民間土着信仰が結びついた形でヒンドゥー教として確立され民衆に広まるいっぽう、仏教教団も勢力を保ち、アジャンター石窟寺院やエローラ石窟寺院などにおいて優れた仏教美術が生み出されました。
5世紀以降「白いフン族」と呼ばれたエフタルの中央アジアからの侵入に悩まされ、6世紀半ばには滅亡へと追い込まれ仏教教団も衰退していきます。

美術

グプタ朝時代に栄えた美術は、これまでギリシア文化の影響が色濃かったガンダーラ美術に代わり、純インド的な仏教美術として知られ、グプタ美術、または「グプタ様式」と呼ばれています。代表的なものとして、アジャンター石窟寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの仏像が知られています。

アジャンター石窟寺院の壁画

クブタ仏

2叙事詩

宮廷ではサンスクリット語が公用語とされ、カーリダーサがサンスクリット語で戯曲『シャンタラーク』を著すなど、サンスクリット文学が盛んになります。また、『マヌ法典』によりヴァルナ制が強調され、サンスクリットの二大叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』などが長い時間をかけてほぼ現在伝えられるような形に完成しました。ここでは、ヴェーダの神々への信仰は衰え、シヴァ、ヴィシュヌ、クリシュナなどの神々が讃えられています。

マハーバーラタ

古代インドのサンスクリット叙事詩。「ラーマーヤナ」と並ぶインドの国民的叙事詩。バラタ族の2王族が,聖地クルクシェートラで戦った18日間の大戦争の経緯を主題とした物語。10万頌(しょう)(頌は16音節2行の詩)の詩句と1万6000頌の世界最大なもの。しかし主題の部分は全体の5分の1で,残りは神話・伝説・道徳・教訓等の諸エピソードにあてられ吟遊詩人によってうたわれてきました。現在のような形が成立したのは4世紀のころとされています。後世,インドの諸言語に訳されたり,ジャワ,マレー,タイ,バリ島にも伝えられ,それらの文学・芸術に大きな影響を与え、日本の謡曲《一角仙人》,歌舞伎《鳴神》の源流となっています。

マハーバーラタの構成 - Wikipedia

ラーマ・ヤナ

ラーマ王子とシータの結婚

古代インドの大長編叙事詩。ヒンドゥー教の聖典の一つ。バールミーキ作と伝えられ,7編2万4000詩節からなる。3世紀ころ現存の形になったものと考えられています。ラーマ王子とその妃シーターの武勇譚(たん)を中心に,魔王ラーバナや賢明豪勇な神猿ハヌマット等が活躍する大史詩。物語中,ラーマはビシュヌ神の権化と扱われ,多くの神話・伝説をエピソードに収めていて宗教文学的な色彩が強く,後世ラーマ崇拝を盛んにさせる原因となりました。東南アジア諸国や中国にも伝わり,日本では平安末期の《宝物集》の中に紹介されています。

ラーマーヤナ - Wikipedia

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