呉越の建国と滅亡(春秋戦国時代)~日本人のルーツ~

はじめに

日本人のルーツ。それは長江文明、稲作漁労文化を築き弥生時代(紀元前1000年頃~)に渡ってきた中国の長江下流域民(江南)と言われています。春秋戦国時代に興った呉、越の民が戦争に敗北し、日本に渡来してきたという説があります。本記事は、呉、越の建国と滅亡に関するメモまとめです。

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江南(呉越地方)の変遷

中国文明のなかでも早く起こったのが中国南部の長江文明。
紀元前5000年頃には稲作漁労文化が発達した長江下流域は、江南と呼ばれ
河姆渡文化馬家浜文化良渚文化
といった遺跡がみられる地域です。
ここに、春秋戦国時代、呉、越という国が興り激しい争いが繰り広げられていました。

古代江南に住む百越は、中原(黄河中流洛陽のあった地域)から遠く離れた地。
ここには苗族(みゃおぞく)といった畑作牧畜文化をもった漢民族などによって追われた民族が住み、
周の時代、長江下流域に住む人たちは野蛮人(蛮族)として見られていました。
春秋時代に至ると周辺国との交流が盛んになり、春秋戦国時代末期には、漢民族の中心的位置になっていました。
その頃、呉の闔閭と越の勾践がそれぞれ都を蘇州と会稽に置き、その後両国は連年戦争を繰り返して、最終的には文化、政治共にひとつとなりました。
紀元前473年頃には呉が、紀元斬306年には越が滅亡し、日本への移民が増えていきます。
その後、北方で戦乱起こり、長年続いたため中原にいた漢民族が南下をはじめ、晋朝五胡乱華の後となると、大量の北方漢人が江南に移り住んできました。

春秋戦国時代の発生

日本ではまだ縄文晩期に当たる紀元前1046年。
殷王朝の紂王(ちゅうおう)は暴政を行い、殷の従属国であった周の武王は、 周公旦太公望召公奭ら名臣の補佐のもと、反旗を翻し牧野の戦いで殷王朝は滅亡、 周王朝が興ります。
紀元前771年の洛邑遷都までを西周、遷都から秦に滅ぼされるまでを東周春秋戦国時代)と区分されています。
春秋戦国時代に入ると王朝の権力は失墜し、次第に有力諸侯が自立して王を名乗っていき群雄割拠状態になります。 
春秋時代の諸侯はそれぞれ都市国家の支配者で、この時代だけで約200国に達していました。その中で特に有力であったのが晋、斉、楚、秦の四国で、他に魯・宋・衛・陳・蔡・曹・鄭・燕があり、これらを“春秋十二列国”と称しています。
呉越は、辺境の小国でこれらの国から追われる立場でした。
東周(紀元前770年ー紀元前256年)平王
秦(前770年 – 前206年)襄公
燕(前1046年 – 前221)燕侯克
楚(殷代 – 前223年)鬻熊
(前403年 前222年)列侯
(前403年- 前225年)文侯
(前386年[25] – 前221年[太公


呉(紀元前585年頃 – 紀元前473年)

呉の建国

春秋戦国時代の(ご)は、河姆渡遺跡のあった長江下流域で興りました。
呉は12世紀頃に興った句呉(くご)が前身で、春秋戦国時代に呉(紀元前585年~起源前473年)となります。
中国の周王朝の祖、古公亶父(ここう‐たんぽ)の長男太伯(泰伯)が、太伯の弟の虞仲(ぐちゅう)と千余家の人々と共に建てた国が起源となります。
姓は姫(き)。

その建国については司馬遷の『史記』に記されています。
周の古公亶父の末子の季歴(きれき)は評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていました。
兄の太伯と虞仲は季歴に後継を譲り、呉の地まで流れていき、現地の有力者の推薦され首長になったといいます。
後に季歴は兄達を呼び戻そうとしますが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施しました。
刺青は蛮族の証であり、文明地帯に戻るつもりがない意志表示だったようです。
太伯と虞仲が建てた国が句呉(くご)となります。
太伯が亡くなった後嫡子がいなかったため、首長の座は虞仲が後を継ぎます。
その後、周を建てた武王は、虞仲の曾孫の周章を改めて呉の国主に、周章の弟の虞仲(同名の別人)を北方の虞の国主に任じます。
春秋時代に入り、太伯から数えて19代目の寿夢は国号をと改め、初めて王を称するようになりました。

呉越の争いと呉の滅亡

紀元前12世紀から興った呉も、紀元前473年、6代の夫差(ふさ)まで続き、越王の勾践により滅ぼされます。

6代王の闔閭(こうりょ)のとき、「孫子の兵法」で知られる孫武を擁しており呉は強国でした。
当時超大国だった楚の首都を奪い滅亡寸前まで追い詰めます。
しかし、その最中に新興国の越の允常(いんじょう)に攻め込まれ楚から撤退しました。
(紀元前505年)
これを恨んだ闔閭は、允常の子で後を継いだ勾践(こうせん)と戦うも闔閭は重傷を負わされ、、子の夫差(ふさ)に復讐を誓わせ没します。
夫差は、薪の上に寝て復讐心を忘れないように心がけ、後に会稽(かいけい)で勾践を滅亡寸前まで追い詰めます。
このとき、勾践が謝罪してきたためこれを許します。
勾践は、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにしました。(以上の話が臥薪嘗胆の言葉になります)
その後、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていました。
夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、中原に諸侯を集め会盟していたとき、越は呉の首都を落とします。紀元前473年、呉は越により滅亡します。
この時、夫差は勾践に対し助命を願われたので、流刑にして命だけは助けようとしましたが、夫差はこれを断って自害しました。
このような、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれました。

日本の『新撰姓氏録』によると、夫差の子・忌が日本に渡り帰化人となり、筑紫国に至って肥後国菊池部に住んだと記載されているようです。さらにその子孫が筑紫国夜須郡松野に移住し、姫姓から松野連(まつののむらじ)姓に変えたのが始まりという伝承があり、北部九州には同氏を祖とする氏族の家系が複数存在しているようです。

呉の王は、周王の血をひく一族。(姫氏)
日本へ渡来し、北部九州へ移住(紀元前473年~)
松野連など

越(紀元前600年頃 – 紀元前306年)

(えつ)は、春秋時代に呉の南部、中国浙江省の辺りにあった国です。
首都は会稽(かいけい)(現在の浙江省紹興市)。
漢民族とは別系統の長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われています。
越、楚、呉などとともに長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えていました。

『呉越春秋』によると、夏朝の6代王少康(しょうこう)の庶子である無余が会稽に封ぜられ、文身(入れ墨)・断髪したのが越の起源であるとされています。
『魏志倭人伝』には、「倭人が入れ墨を彫っているのは大魚や水鳥の害を防ぐためである」として、この少康の子の故事が引き合いに出されています。
はじめて王を称したのは、呉王闔閭に重傷を負わせた允常。
子の勾践が父の後を嗣いで越王として即位し呉を滅ぼした後、腹心の文種を粛清するなど猜疑心から優秀な人材を失い、越は徐々に衰退していくことになります。
紀元前334年、勾践の6世の孫である無彊の代の時、楚の威王の遠征によって越は敗北し無彊(むきょう)は逃亡。
その後、江南の海浜で諸族の子らが争って立ち、ある者は王となり、ある者は君となり、楚に服属し紀元前306年頃、楚の王族淖滑によって滅ぼされました。

越王は夏王朝の血を引く一族
日本へ渡来の一族は?(紀元前306年~)

約3000年前の周の時代の古人骨からは、ハプログループQ (Y染色体)が約59%の高頻度で観察された。現代の漢民族に高頻度のハプログループO2 (Y染色体)は27%しか見られない[36]上古中国語の担い手はハプログループQであったことも想定される。

日本人には0.4%Qが含まれている。
朝鮮人は0%
ベトナム人に多い。
周、呉越人は朝鮮半島は渡っていないのかもしれないなー。

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