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三輪へ到着
明日香村を巡った後は、すでに夕方になっており、日も落ちかけていた。
その日は、三輪山の麓にある旅館を手配していたので、電車を乗り換えて移動する。
飛鳥駅から、橿原神宮駅で降り、橿原線に乗り換え北上。
大和八木駅で近鉄大阪線に乗りかえると3つ目の駅が桜井駅だ。
途中、円錐状の形をした耳成山の側を通りすぎる。
桜井駅に着いた頃は、既に完全に日は落ちていた。
駅前にバスターミナルがあったので、バスで移動することにした。
バスを降りると、巨大な大神神社(おおみわじんじゃ)の大鳥居と満月がセットで出迎えてくれた。
大神神社の大鳥居は、日本最大の大きさなので結構迫力がある。
本当は、背後の三輪山をバックに撮りたかったのだが、鳥居があまりにも大きすぎて視界が入らず諦めた。
これまでいくつかの神社を周ってきたが、此処だけは特別に神秘的なものを感じていた。
旅館にたどり着くとやけに胸がときめいていて、女将さんに「月がとてもきれいで感激した」ようなことを嬉しそうに話していた記憶がある。
宿は風情のある和式の旅館で、一人ではちょっと広い部屋。
風呂はいつもシャワーだったので、久しぶりの湯船にゆっくりつかり疲れをとった。
翌朝起きると雨が降っていた。
昨晩ついたときは、雲もなく澄み渡っていたのに・・。
三輪山周辺の歴史
奈良県桜井市にある三輪山は、明日香村の北東に位置する場所にあり、日本創世の時代から神宿る山とされてきた。
三輪山は標高467mの円錐形をした山で、大神神社は三輪山自体を御神体とし、蛇神である大物主神を祭神としている。
縄文あるいは弥生時代からアニミズムの対象であったとされ、古墳時代に入ると周囲に大きな古墳が造られたため、この一帯を中心に大和政権の前身となる初期大和政権(三輪政権)があったとされている。
三輪政権は、実在していたと考えられている10代天皇崇神天皇による政権で、3世紀後半頃、 磯城・纏向を中心としていた。
三輪山の山麓地域には、西殿塚古墳(伝継体天皇の后 )、行灯山古墳(伝崇神陵)、渋谷向山古墳(伝景行陵)、箸墓古墳と、墳丘の全長が200~300mにおよぶ四基の大型前期古墳がならんでいる。
特に巻向遺跡にある箸墓古墳は、魏志倭人伝に伝わる邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかと推測されていることで有名だ。
三輪山の神をめぐる神婚説話。活玉依姫(いくたまよりひめ)に,夜ごとに通う男がいた。その正体をつきとめるため,糸巻の糸を通した針をそっと男の衣に付けておくと,翌朝糸は鍵穴から抜け出ていた。辿っていくと〈美和山〉の社に着き,正体は神とわかる。糸巻に糸が3勾(みわ)(3巻)残っていたことから,その地を三輪と名づけた。生まれた子は三輪氏の祖〈大田田根子(おおたたねこ)〉となり,三輪山の神,大物主神を祭ったと《古事記》は伝える。氏族伝承を三輪の地名起源説話としたもの。
《日本書紀》崇神天皇条では,倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に通う神が,蛇体の正体をあらわすことになっている。
参考URL:三輪山伝説
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%B1%B1%E4%BC%9D%E8%AA%AC-139995
2日目 三輪山周辺巡り
大神神社(おおみわじんじゃ)
大神神社は、10代崇神天皇の時に大流行した疫病を祭神が鎮めたこと、祭神の助力を得て杜氏が美酒を醸したことから、医薬、酒造りの神様として広く信仰されている。
祭神の大物主神(おおものぬし)は、「大いなる物の主」を表し、精霊(もの)をつかさどられる・統すべられるという意味がある。
また、古事記から、出雲の大国主神の和魂であり、蛇神であると考えられ、水神、雷神としての性格や、日本の守護神、大神氏の祖神である一方、祟りなす強力な神ともされている。
参考:wiki
『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れとば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる。『日本書紀』の異伝では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として三諸山に祀ったとある。
よく、「三」という数字がでてくるけど、何か意味があるのかな?
三は蛇、六は亀を表すんだって。
三は(蛇 ー)、六は(亀 〇)かな。
666(ミロク)は悪魔数とも呼ばれているけど、これと関係あるのか?
三輪山へは、神官、僧侶以外足を踏み入れることのできない禁断の地とされてきた。
鎌倉時代になると、慶円が三輪氏の氏神であった三輪神社を拡大し、本地垂迹説によって三輪明神と改め三輪山平等寺を建立した。
江戸時代は平等寺の許可がないと入山できなかったが、明治以降は「入山者の心得」が定められ、現在はこの心得さえ遵守すれば誰でも入山できるようになっている。
また、拝殿以外にも、三輪山周辺には数多くの摂社が衛生的に鎮座している。
高宮社:三輪山山頂に鎮座する。 祭神は大直禰子神社
磐座神社: 少彦名神を祭神とする。 拝殿と狭井神社の間にある小さな神社。
狭井神社: 祭神は大神荒魂神。病気平癒の神社 。神水が湧き、無料で飲むことができる。ここから三輪山へ入山手続きできる。
活日神社:杜氏の祖、高橋活日命を祭神とする。
市杵島神社 : 市杵島神社を祀る。
大直禰子神社 :聖林寺の十一面観音像が安置されていた神宮寺。
檜原神社 :元伊勢神社のひとつ。
大神神社HP: http://oomiwa.or.jp/jinja/gosaijin/
ニの鳥居から拝殿までは一直線に、この大通りを進む
しるしの杉
しるしとは、示現のことで、三輪の大神のあらわれた杉、神の坐す杉とされてきた。
とても清々しく身を清められる。
巳の神杉
大物主大神の化身とされる白蛇が棲むことから名付けられた。
樹齢500年とも言われる。蛇の好物の卵が参拝者によってお供えされている。
拝殿
1664年に4代将軍徳川家綱公により再建された。
拝殿の両脇に巳の神杉がある。
稲荷神社
宇迦之御魂神 。拝殿の南側の小高い場所にある。
市杵島神社
宗像三女神の1柱、市杵島姫神を祀る。
拝殿から北への道を進むとたどり着く。
狭井神社
病気平癒の神社。湧き出る御神水を飲むことができる。
久延彦神社
大神神社から少し離れたひっそりした場所にある。久延毘古命を祀る。
久延毘古命は、かかしの姿をし、また古事記では大国主神に、少名毘古那神の名前を教えたことから、田の神、学業・知恵の神として信仰されている。
そのため、合格祈願の神社として知られ、たくさんのふくろうを模した絵馬が奉納される。
久延彦神社の竹藪
神社の階段は細長く、両側は竹藪で覆われ、ひっそりとしていた。
受験期になると人で賑わうのだろう。
三輪山にある展望台からの眺め。
三輪山から巻向まであぜ道を通り移動
巻向遺跡付近から眺める三輪山
蛇神を祀る神社は近くに円錐状の山があるそうだ。
巻向遺跡 箸墓古墳
箸墓古墳は、大神神社から巻向駅までの線路沿いに沿って、徒歩で20~30分程度北上したところに所在する。
3世紀後期~4世紀初頭に巻向遺跡の箸墓に造られた古墳で、前方後円墳としては最古のもの。
規模は全長278メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートル、前方部は前面幅約130メートル、高さ約16メートル。本来はもう一回り大きかった可能性もある。
箸墓古墳の名前の由来は、日本書紀に記載のある、大物主神と 倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと) の伝説からきており、被葬者は 、 第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命と考えられている。
また、魏志倭人伝が伝える卑弥呼の墓ではないかとする説でも有名。
しかし、卑弥呼の亡くなった年は3世紀中期(247年)とされており、年代が半世紀ほどずれていることや、魏志倭人伝に記載されている規模、形状(円墳)直径100mと異なっているといった点から仮説の域をでていない。
大物主神と百襲姫(活玉依媛)との間には 大田田根子(オオタタネコ)という子供がいたけど、 卑弥呼には夫がいなかったんじゃなかったけ?
そうなると・・
wikiの航空画像
箸墓古墳の名前の由来
「倭迹迹日百襲姫は大物主神の妻となった。でもその夫の神はいつも昼間は見えず、夜にだけやって来る。姫は「あなたはいつも夜だけにやって来るので、顔がはっきり見えません。どうか朝までいてください。その麗しく威厳のある姿を私に見せてください」と頼んだ。大神は「なるほどよく分かった。私は明日の朝、君の櫛笥入っていよう。でもその姿に驚かないでくれ」と語った。姫は不思議に思ったが、明くる朝を待って櫛笥を見ると、ちょうど衣紐ほどの大きさのとても美しい小蛇がいた。姫が驚いて叫ぶと、大神は人の形に戻り「私に恥をかかせたな。しかえししてやる。」 と言い残し、大空を駆け上がり、三輪山に登っていった。その姿を見た姫は悔いて座り込んでしまい、その拍子に箸で陰部を突いて死んでしまった。ゆえに当時の人たちはその墓を箸墓と名付けた。この墓は昼は人が造り、夜は神が造った。また大坂山から石材を手渡しで運んだ。」
箸墓古墳 円墳側
箸墓古墳 方墳側
聖林寺(しょうりんじ)
箸墓古墳から北にいくと巻向駅に着くので、そこから南の桜井駅へ引き返す。
桜井駅から、談山神社行きのバスに乗り換え「聖林寺前」で降り、徒歩5分程度で聖林寺に到着する。
聖林寺は、716年、談山神社の別院として藤原鎌足の長男 定慧(じょうえ)によって創建された。
談山神社のある場所は、聖林寺からさらに奥にある紅葉の名所として知られ、神社のある 多武峰は、大化の改新の談合が行われた地でもある。
聖林寺は、坂を少し登った場所にある小さなお寺。
真言宗室生寺派のお寺で、寺の中には大きな子安延命地蔵という石造が本尊として広間に置かれている。
この寺で有名なのが、国宝の十一面観音像だ。
十一面観音像は、もとは大神神社の大神氏の祖オオタタネコを祭神とする、旧大御輪寺(だいごりんじ、おおみわてら)の本尊であった。
秘仏として、人々の目に触れられることがなかったが、明治維新の廃仏毀釈により聖林寺へ移された。
明治時代に来日した哲学者、美術研究家のアーネスト・フェノロサと岡倉天心によって開扉され、フェノロサが激賞したことで有名である。
また、11月になると曼荼羅絵図が公開され、間近で見る事ができる。
十一面観音像(聖林寺HPより)
聖 林寺HP: http://www.shorinji-temple.jp/about/
バスから降りた風景
右上にある建物が聖林寺
寺院
境内
晴天であれば、三輪山が遠方に見える
安倍文殊院(あべのもんじゅいん)
時間があったので、聖林寺から北上し桜井駅まで徒歩で帰る。
帰路の途中で、安倍文殊院という一風変わった寺院を見つけたので立ち寄ることにした。
安倍文殊院は、 飛鳥時代の豪族で、645年、大化の改新時に初の左大臣に任ぜられた安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)によって創建された氏寺である。
現在は華厳宗の寺となっている。
京都宮津にある知恩寺(切戸文殊)、山形県高畠にある亀岡文殊 と合わせて日本三文殊という。
1563年にあった戦いでほぼすべてを焼失し、1665年に本堂と礼堂が再建され、現在に至る。
平安時代、陰陽師で有名な安倍晴明が修業した場所として知られる。
また、遣唐使の安倍仲麻呂、安倍晋三首相の献灯碑といった安倍氏ゆかりのものが集結している。
境内には、獅子に乗り、4人の脇侍を伴う国宝・渡海文殊菩薩群像をはじめ、縁結びの神で知られる重要文化財・白山堂、特別史跡・西古墳、安倍晴明が天文観測をして吉凶を占う修業をしたという天文台、陰陽道の秘宝の数々を納めた金閣浮御堂など歴史的にも貴重な見どころにあふれている。
安倍文殊院: http://www.abemonjuin.or.jp/about.html
神社、陰陽道がごちゃまぜになっている、今時めづらしい神仏習合のお寺だよ。
表山門
本来の表山門であるが、車による参拝者の増加でここから入る人は少ない。
金閣浮御堂(仲麻呂堂)
文殊池の中にある金色の六角堂
中に安倍仲麻呂像、安倍晴明像などを祀る。
稲荷社
安倍晴明の秘話にまつわる「くずは稲荷」として祭られている。
稲荷社までの鳥居
京都の伏見稲荷大社ほどの規模ではないが、いくつかの鳥居をくぐっていく。
安倍晴明を祀る晴明堂
高台にある占いの開祖で有名な、安倍晴明天文観測の地。
如意宝珠
この玉を撫でると魔除け方位除けの後利益が受けられるという。
白山堂
当山の鎮守である白山堂は、室町時代に建立されたもの。 北陸の白山神社の末社で、菊理姫を主神として祭り、特に縁結びの神として信仰が厚い。
弘法大師像
石仏群が安置された前には弘法大師像があり、足元の「お砂踏み石」の中には、四国八十八ヶ所の各寺院の砂が奉納されている。
華厳宗は南都六宗の一つで、鎌倉時代に真言密教の思想が取り入れられたから、弘法大師像があるのかもね。
閼加井(あかい)の古墳(通称智恵の窟)
原始的素朴な巨石を使用し加構された古墳で、羨道の中ほどに数百年の昔より涸れることなく、こんこんと涌き出ているこの泉は「知恵の水」と呼ばれ智恵のご祈祷を受けられる方々に授与されています。
合格門
松を使用して造られた門。
一足先に合格門をくぐり合格を「まつ」という意味があるそうだ。
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真理の島 四国(愛媛、香川、徳島、高知)
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