旅行記20 岐阜 関ケ原合戦場探訪

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関ケ原へ

福井から戻る途中電車の中で戦国時代巡りを思い立つ。
神社、仏閣、古墳巡りも同じようにみえてきて飽きてきた。
歴史の中でも戦国時代が一番面白いね。
戦国といえば、関ケ原合戦場!

大阪駅」から新快速に乗って滋賀の「JR米原駅」で東海道本線に乗り換え。
米原から20分程度で「関ケ原駅」に到着。
電車に乗っている間は、山の谷間を通過している感じでこのあたりを大軍で行軍するのはなかなか大変そうなところ。

関ケ原合戦場で、西軍石田三成は北西の笹尾山麓、小早川秀秋は松尾山麓に鳥が翼を広げたように陣を敷いた鶴翼の陣形を、東軍徳川家康は桃配山麓に陣を敷き中央突破型で守りに強い魚鱗の陣を敷いた。
この両軍の配置図からみると、東軍は西軍に囲まれる状態で東軍が不利な状況だった。
しかし、このときすでに西軍の総大将で大阪城にいた毛利輝元と、小早川秀秋は黒田長政の調略により家康側と内通していた。

ルートは駅から北西の三成陣へ向かい、西軍側を南下する反時計回り。

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東軍 松平忠吉・井伊直政陣跡

JR関ケ原駅から一番近い場所にある。
松平忠吉は家康四男で、井伊直政は忠吉の舅の関係。
直政は徳川四天王の一人として知られ、甲斐武田家が潰れた後は山県昌景率いた精鋭赤備え隊を引き継ぎ、その部隊は「井伊の赤備え」直政も「井伊の赤鬼」と恐れられた。このときの忠吉は初陣で、直政は手柄をとらせようと開戦前から30騎ほど引き連れ最前線へでていった。
先鋒を任されていたのは賤ヶ岳7本槍の一人として知られた福島正則。
直政と忠吉部隊は西軍の主力を担った宇喜多秀家の部隊に向けて発砲し、これが開戦のきっかけとなった。後に、家康から直政と直政は破格の加増を受けることになる。

家康最終陣地

開戦時は後方の桃配山に陣を敷いていた家康も前進し、最終的には直政の陣地近くまで移動していた。

決戦地

開戦時に細川忠興、黒田長政が陣取っていたあたりは関ケ原の最大激戦地で決戦地だったところ。
三成が陣取っていた笹尾山の近くにある。(左手の高台に旗が建っているところが三成の陣跡)

東側の南宮山。
あの山の裏側に、西軍の毛利秀元、安国寺恵瓊、吉川広家らが陣取っていた。
しかし、吉川広家が内通して動かなかったため西軍敗北のきっかけのひとつともなった。
左の裾野あたりが最初に家康が陣を敷いていた。

西軍大将 石田三成陣跡

石田三成の陣跡のあった笹尾山は小高い丘のような場所。
多くの旗指物と馬防柵が設けられて当時の状況が再現されている。

登るのはそれほど苦でもなく、ここから合戦場を一望できる。

それほど広々とした場所でもない。

前方が東向き(南宮山方向)

南側方向
手前の小高い山あたりに三成と仲が良かった大谷吉継が、その奥の山が小早川秀秋のいた松尾山あたり。

西軍 島津義弘陣跡

三成の陣を後にして、近くの島津義弘陣跡へ。

数分歩けば着く場所で、林の中に陣跡があった。
島津義弘は薩摩島津貴久の次男「鬼島津」の異名をもつ戦国屈指の猛将。
朝鮮の役では「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と朝鮮・明軍から恐れられていた。
関ケ原に参陣したときは、手勢は少なく(1500-3000程)、開戦しても兵を動かさなかった。
兵を動かさなかった理由はよくわかっていないが、三成の使者が義弘に援軍を要請したが、下馬せず救援を依頼したため無礼であるとし激怒したためとも言われている。

小早川秀秋の裏切りで、西軍総崩れとなったとき手勢は300人ほどになっており、島津軍は退路を遮断され孤立状態となっていた。
義弘はここで、家康本陣のある敵中突破で退却を決意。その際、旗指物、合印など捨て決死の覚悟でまずは敵前衛の福島正則を突破する。その後、井伊直政、松平忠吉、本多忠勝などの追撃も捨て奸(すてがまり)戦法でかわし伊勢へと落ち延びていった。

義弘陣跡の背後

関ケ原合戦開戦地

島津義弘陣跡を少し先に進んだ場所に、先ほど述べた井伊直政隊・松平忠吉隊・宇喜多秀家隊が戦った開戦地がある。

西軍 小西行長陣跡

小西行長は元は宇喜多家の家臣で、後に秀吉に気に入られ秀吉配下の将となった。宇喜多家の恩もあり西軍として参陣。大谷吉継の陣が崩れた後、小西隊・宇喜多隊も崩れ伊吹山中に逃れた。後に捉えられ、石田三成、安国寺恵瓊とともに六条河原で斬首された。キリシタンであったため、教皇クレメンス8世は行長の死を惜しんだと言われる。

西軍 宇喜多秀家陣跡

下剋上で大名となった直家の子で、幼少期から秀吉に重用され西軍では主力となった。
善戦を繰り広げていたものの、小早川秀秋の裏切りにより壊滅。その後落ち延びながら転々とし薩摩島津藩で保護されていた。後にそれがばれ、八丈島に流人として4代将軍家綱の代まで余生を送る。

杉並木のある中に陣跡がある。

西軍 大谷吉継陣跡

ここから、しばらく細い山道を歩く。

大谷吉継は越前敦賀藩主で秀吉家臣の武将。
ハンセン病を患いながらも三成側に参戦。参戦前は3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが敗戦を予測しながらも西軍についた。
このとき、吉継は白装束で輿に乗って参陣。戸田勝成・平塚為広の諸隊、合わせて5,700人で布陣する。午前中は、藤堂高虎、京極高知を相手に奮戦。
正午、東軍に寝返った小早川軍1万5000の兵の攻撃を受けるも、事前に予測し迎撃し山へ追い返したという。しかし、脇坂・朽木・小川・赤座の4隊4200人が東軍に寝返えったことで大谷隊は包囲され壊滅し、吉継は自害した。

陣跡は山中の奥の方にあった。

吉継の墓も近くにある。

西軍 平塚為広陣跡

大谷吉継の陣から少し離れた場所。秀吉の家臣として仕えた武将で後大谷吉継に属す。
吉継より小早川秀秋の動向を探り、裏切りの気配があれば暗殺せよとの密命を受けていた。
しかし、暗殺計画がばれてしまい攻撃を許すことになる。

松尾山

関ケ原の勝敗を決定づけた小早川秀秋の陣があった松尾山。
けっこう合戦場から離れた場所にある。
目玉なのに時間がないので行くのはあきらめた。

不破の関

鈴鹿関、逢坂関とともに三関と呼ばれ、三関から東は東国と呼ばれた。
不破の関は壬申の乱の翌年(673年)に設置され治安維持のため通行を監視した。

東軍 福島正則陣地跡

東軍先鋒の福島正則の陣地跡。
福島正則は尾張の桶屋の息子で、母の縁から秀吉の小姓となり賤ヶ岳では七本槍の一人となった。
その後、軍功をあげ大名格に出世する。石田三成らと朝鮮出兵を契機としてその仲が一気に険悪となっていたため、徳川方についた。

東軍 藤堂高虎・京極高知陣跡

藤堂高虎は秀吉死去前から家康に接近し、家康側についていく。
最初は大谷吉継を相手に戦闘していたが、その後三成軍と戦ったとされる。

東軍 本多忠勝陣跡

関ケ原駅からぐるっと一周最後は本多忠勝の陣跡。
徳川四天王で武田信玄、信長、秀吉にも賞賛された本多忠勝は、嫡男の忠政が指揮を執り、豊臣恩顧の武将の監視役にあったともいわれる。それでも奮戦し、僅かな手勢で90にも及ぶ首級をあげた。
そんな忠勝の追撃さえ振り切る島津義弘は化け物だ。

思ったより時間かかった。竹中半兵衛さんの墓でも行こうかと思っていたけど余裕がなかったので帰った。

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真理の島 四国(愛媛、香川、徳島、高知)

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